33.有田で金もとれたの?

33.有田で金もとれたの?
古木場金山跡

◇有田中部の古木場地区は、 江戸時代の寛永年間(1624~1644)、金山として大変なにぎわいを見せていました。1627年(寛永4)に肥前国をさぐりに来た幕府隠密の報告書には、有田の磁器については何も記されておらず、金山についての記事が中心になっています。当時、幕府は金銀の鉱山の開発に強い関心があって、隠密も金山の調査に重点を置いたものと思われます。その報告書によりますと、有田金山は1625年(寛永2)の12月から掘り始められ、翌年の3月には均衡を掘りあてて、一時は6、7千人の人が入りこんでいたと伝えられています。
◇この金山は露天掘りではなく 、坑口から坑道(“まぶ”という)を掘り進んで行く“まぶ山”とよばれました。まぶの数は60ばかりあったものの、実際に金鉱(くさり)を掘りあてたのは2つほどであったと記されています。しかし鉱脈が貧弱だったと見えて、まもなく金がとれなくなって山はさびれました。隠密が有田に来た1627年2月ごろは、人家が5百から7百軒。そのうち30軒ほどは商家で、町並みは城下町のようにみごとであったと書いています。隠密が「金がとれなくなった山に何で住んでいるのか」と尋ねますと、米などの借りがあって、出入りを監視している口屋番所を出られないまま居ついていると答えています。金鉱石が流出するのを防ぐため、金山の周囲約12キロには柵がめぐらされ、口屋以外から物を買うことも禁じられていた様子がうかがえます。
◇初代佐賀藩鍋島勝茂の年代記にも有田金山の記事があります。それによると、1625年の4月から5月までに人夫百人で金108匁(1匁は3.75グラム)を掘り出し、あくる10月までに金1貫523匁(1貫は千匁)を産出しています。この年から2、3年掘り続けたものの、経費ばかりかかって金はさほど出なくなったため、1627年の終わりごろには廃坑となったものと考えられます。

(吉永 登)  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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