32.荷造りと運ぶ方法は?

32.荷造りと運ぶ方法は?
戸矢番所跡

◇ 有田で作られた焼き物は、まず伊万里へ運ばれ、そこから船に積まれて日本各地へ送られていきました。そのため、有田焼は積み出し港の名前をつけて「伊万里焼」とよばれていました。
◇焼き物を運ぶためには荷造りをしなければなりません。昔は稲わらを使って荷造りをしていました。皿や茶わんや花びんなど、色々な形の物を荷造りするには専門の技術がいりました。 荷造りを職業にする人たちを荷仕(にし)とよんでいました。荷造りされた焼き物は、昔は人が「てんびん棒」でかついだり、または牛や馬の背にのせて伊万里まで運びました。1897年(明治30)に佐世保線が開通し、翌年に伊万里線(現在の松浦鉄道)が開通すると、焼き物は有田から直接鉄道で運ばれるようになりました。1950年代(昭和25~30年代)にダンボール箱が普及しました。荷造りはだれでもできるようになり、荷仕の仕事はなくなりました。荷を運ぶにも、主にトラックが使われるようになりました。
◇ところで有田焼は、江戸時代にはさかんにヨーロッパに輸出されていましたが、その窓口になったのは長崎の出島にあるオランダ商館でした。有田から長崎まで焼き物を運ぶには3つのルート(道すじ)がありました。
◇第1は、有田から伊万里へ運び、そこから船で長崎まで運ぶルート。第2は有田から嬉野へ出て、そこから長崎街道を長崎へ運ぶ陸上のルート。第3は有田から波佐見を通って川棚へ出て、そこから船で大村湾を渡るルート。このうち第3のルートは、途中に戸矢番所がありました。 戸矢番所は佐賀藩と大村藩の藩境を警備する番所で、そこには佐賀藩の役人が駐在していて、通行人や品物をきびしく検査しました。人は通行手形(パスポート)がなければ通れなかったし、品物は許可証がなければ取りあげられてしまいました。

(宮田幸太郎)

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