14.皿山に代官がいたの?

14.皿山に代官がいたの? 白川・皿山代官所跡

◇有田には、有田・伊万里両郷を支配した「皿山代官」がおり、その役所として「皿山代官所」がありました。有田は他の佐賀本藩領と同じく、郡代(松浦郡代)と代官(皿山代官)によって二重に支配されました。犯罪人の取締りや逮捕などは松浦郡代の職務、租税の徴収や陶磁器生産関係のことは皿山代官の職務となっていました。皿山代官の管轄区域は有田・伊万里の両郷でしたが、陶磁器生産に関しては、この両郷以外の大外山も支配していました。
◇初代の皿山代官に任命されたのは、山本神右衛門重澄でした。重澄は、はじめ1635年(寛永12)正月17日付で佐賀以西の本藩領一帯の監察官に任命され、併せて伊万里・有田・川古(今の武雄市若木町)三郷の開発を命ぜられました。重澄はその職にある時、陶業者からの税徴収や本藩の借銀利払い交渉などで功績をあげました。折からの有田陶磁器業界の発展と相まって、1647年(正保4)12月に正式に皿山代官が創設されると、初代の皿山代官に就任しました。その後、皿山代官には中堅クラスの武士が任命され、1871年(明治4)7月に百武作右衛門(作十)が辞めるまで、41名以上の人物がこの職につきました。
◇それらの代官の中で、特に有田町民に敬慕されたのは成松万兵衛信久で、その業績は陶山神社の裏公園にある「成松信久碑」に詳しく述べられています。信久は調停の才にたけ、ひいきをせず、また自ら代官所の修理をしたりする親しみ易い一面がありました。このため有田町民に愛され、1829年(文政12)8月に役職が変わって佐賀に帰る時、「成松社」という石碑を建立してもらいました。皿山代官所の場所は、初め重澄が在職中に住んでいた大木村(有田町大木)にありましたが、後に白川山(有田町白川・現在の森病院付近)に移りました。

(浦川和也)

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