12.皿山にいつから会社が?

12.皿山にいつから会社が? 幸平

◇1871年(明治4)の廃藩置県と同時に、255年の間、佐賀藩の保護の下にあった有田皿山は独り歩きをしなければならなくなりました。
◇1873年(明治6)、有田皿山と外山7地区の窯焼きたちは話し合って「陶業盟約」という決まりを作って自立をはかりました。この年、オーストリアのウイーンで万国博覧会が開かれ、有田はこぞって出品しました。そして皿山一、二の有力者川原忠次郎が有田から初めて渡欧します。この万博で有田焼は大変な人気でした。そこで1876年(明治9)にアメリカのフィラデルフィアで予定されていた万博にも積極的に参加しようと意気ごみました。そのころ、右大臣岩倉具視を特命全権大使とする明治政府の最初の遣外視察団に加わって欧米12か国を回った久米邦武が有田を訪れました。彼の父はかつて皿山代官でした。久米は欧米で有田焼が好評だから、もっと発展させるため、欧米でカムパニーとよばれている会社を作ってはどうかと有田の人たちにすすめました。1875年(明治8)、8代深川栄左衛門、手塚亀之助、辻勝蔵、深海墨之助、同竹治の5人が資本を出し合い、合本組織香蘭社をつくりました。佐賀県で最初の会社で、全国的にも少ないものでした。その称号は中国の古典からとり、有田焼を蘭の香りのように世界に雄飛させようという意味でした。
◇その後、碍子の製造をはじめるなど進取的な深川と、伝統的な名工気質の辻、深海らとの意見が対立し、1879年(明治12)に手塚、辻、深海兄弟が香蘭社を離れ、「精磁会社」を作りました。精磁会社は川原忠次郎を加えて1887年(明治20)には日本で最も新しい近代工場を建てます。
◇第三者に資本の一部を仰ぐ株式会社という近代的組織は1911年(明治44)、幸平に設立された深川製磁株式会社が最初。家業的な会社か合名や合資という同族会社のころ有田では全く新しい試みでした。

(松本源次)

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