11.李参平はどんな人?

11.李参平はどんな人? 大樽・李参平の碑

◇豊臣秀吉は1592年(文禄1)と、1597年(慶長2)の2回にわたり、朝鮮半島へ兵を出しました。文禄・慶長の役とよばれていますが、韓国では壬辰・丁酉の和乱とよんでいます。肥前名護屋城近くに約30万人の軍勢が集まり、そこから約15万人が朝鮮半島へ渡り、多くの人々を殺したり、家を焼いたりして不幸な目にあわせた、実に悲しむべき事件でした。また兵を引き揚げるに際して、各大名は朝鮮の陶工を自国に連れ帰り、焼き物の生産に従事させました。このため朝鮮半島の焼き物の生産はとまり、粉青紗器(朝鮮の焼き物で陶器に白土で化粧し、その上に透明釉をかけたもの)や白磁の技術が途絶えてしまったほどでした。一方、九州・山口各地では朝鮮の陶工によって焼き物が盛んに焼かれはじめ、山口の萩焼、北九州の上野焼・高取焼、佐賀の唐津焼・有田焼、長崎の三河内焼・波佐見焼、熊本の八代焼・小代焼、鹿児島の薩摩焼などがはじまりました。それらの創始者たちが朝鮮の陶工であったこと、朝鮮の人びとの大きな犠牲の上に九州・山口の焼き物の発展のいしずえが築かれたことを忘れてはなりません。
◇佐賀藩に連れ帰られた陶工の中に金ケ江三兵衛がいました。『多久家文書』には三兵衛が多久家に仕えたのち有田に1616年(元和2)に移り住んだとあります。多くの朝鮮の陶工を支配した焼き物生産の指導者であったのでしょう。彼の墓は有田町の白川の墓地に、過去帳は西有田の竜泉寺にあります。それから1655年(明暦1)に亡くなったことがわかります。
◇佐賀藩は朝鮮から来た陶工の保護につとめました。1637年(寛永14)、山林保護のため、有田から826人の陶工を追放したことがありますが、そのときも朝鮮の陶工は例外としたほどです。江戸後期の『金ヶ江家文書』には三兵衛が李と称していたと記しています。それで今日、彼のことを李三平、または李参平と称するようになりました。
(吉永陽三)

 

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