山辺田窯跡

有田町出土文化財管理センターでは、現在、発掘調査等で出土した一つ一つの陶片に、出土地点などを書く作業を進めています。この作業は、業界用語では“注記”とか“ナンバリング”とか呼ばれていますが、調査する市町村教育委員会や大学といった組織によってそれぞれの流儀があります。そのため、記述する基本的な項目には暗黙のルールはあるものの、すべてが同じというわけではありません。当然ながら、旧西有田町と旧有田町では異なっているため、合併後から記述内容の再統一を図ったり、発掘調査当時の諸事情できなかったものなどの注記を進めているところです。

現在は、ちょうど黒牟田の山辺田窯跡の注記が、臨時職員の方々により粛々と進められています。1972~75年度に発掘調査され、この調査に基づく報告書の遺構編が1980年、遺物編が1986年に発刊されています。すでに40年近くも前の調査なので、もちろんわたし自身は関わっていません。ただ、もしかしたら、有田で見た最初の窯跡の出土資料だったかもしれません。というのは、報告書の遺物編の作成の際、東京にある大学の方で、出土品のトレース作業に関わっていました。そして、大学からの命ではじめて有田を訪れ、資料館で陶片の写真撮影を行ったからです。まさかその当時、その後有田に定住することになろうとは思ってもいませんでしたが。

山辺田窯跡は、いわゆる古九谷問題で、現在に至るまでずっと関わりの深かった窯跡です。これまで山辺田窯跡の登場する原稿を、どれほど書いたか分からないくらいです。そういう意味では、なかなか腐れ縁の陶片達なのです。ただ、自分で手がけていない発掘資料は、現場での記憶がない分、状況を把握することがかなり困難です。おまけに、1号~9号の窯が近接したり重なったりしながら発見されているため、どの出土資料がもともとどの窯跡の焼成品であったのか、今のところ、正確には分かっていないのです。実は、現在何号窯跡の製品とかと紹介されているものは、それぞれの窯体の付近から出土しているということに過ぎないのです。

出土遺物がコンテナ800箱以上もあるため、これまでなかなか詳細に見直す機会すらありませんでした。きっと今回の注記の作業中が、最後のチャンスかもしれません。幸い、各窯の焼成室床面から出土しているものも多そうなので、もう少し各窯の位置付けがはっきりさせられるのではないかと思っています。焼成室床面に残された製品というのは、通常、その窯で最後に焼かれた製品です。つまり、窯の廃棄年代が分かるのです。それを各窯の位置関係などと組み合わせて考えると、各窯がどのような変遷したのかが分かってくるかもしれません。古九谷問題の整理のためにも、これはぜひやっておく必要があります。

このように、発掘調査の資料は、保管しているだけでは何も語ってくれません。扱う側がそこからできるだけ多くの情報を引き出し、他の窯跡などの情報とも有効に結合させることによって、はじめて歴史を語る素材となるのです。 (村)

山辺田窯跡の出土品

案内板・標柱等の悉皆調査

町内を歩くと、あちこちにいろんな種類の案内板や標柱が立っていて、その形状も様々でしかも同じ場所に同じようなものがいくつも立っているけれど、一度文化財保護という面からも悉皆調査をしたらどうかという提案があり、職員6名を2つの班に分け今年度から調査を始めています。1班はすでに数回の調査を終え、そのまとめも進んでいますが、私等の班は中々ルーティンワークの中での調整が出来ずにいました。そこで、3人のスケジュール表を見ながら、半ば強引に予定を組み、先週第1回目の調査を行ったところです。

写真、計測、記録を分担し、すでに調査が進んでいる1班のノウハウを活かしながら歩きましたが、この季節、九州でも寒い時期で風も冷たいのです(関東や北にお住まいの方々は南国九州では冬も半袖で過ごしているような思いでいらっしゃるかもしれませんが)。でも、日頃は歩いて見るという機会が少ないので、改めてじっくり町なかを観察しながらの歩きは得るものも多々ありました。

ただ、他の若手2人は一人は以前ネパールに別荘を構えていたほどの本格派と、その影響を受けて最近登山に目覚め親子で県内の山に挑戦しているという、いわば登山のベテランの面々!その後をメタボのオバサンがゼィゼィ言いながら追いかける風景を思い浮かべて下さい。結構きついものがありました!でも何とか李参平碑まで登りましたが、登ってみると有田内山が見渡せ、しかも抜けるような青空!気持ちのいい1日でした。その日の歩数8900歩。少しはメタボ解消となりましたかどうか…。           (尾)

マニラの休日

明けましておめでとうございます。本年もどうぞ宜しくお願いいたします。

さて、私は年末にお休みをいただいてマニラへと行ってきました。以前のブログに書きましたように、2月からの発掘調査の許可申請と打ち合わせのためです。その内容と結果はさておき、今回はフィリピンの国立博物館の「ほこり流し」をご紹介します。

フィリピンにも正月休みはありまして、今年は29日が土曜日で休日であったため、日本の役所と同じく28日が仕事納めとなりました(ちなみに30日はフィリピンの英雄リサールが処刑された日ということでお休みです。)。日本と同じように1年の仕事を終えて、お互いの労をねぎらい合うのですが、日本と少し雰囲気が違います。写真を見ていただければわかりますが、どう見ても妖しげです。カラオケバーに見えますが、これでも国立博物館の考古学部の研究室の中です。なぜかミラーボールが回り、カラオケセットが完備されています。ここでワインが何本も開けられ、テキーラが注がれます。そして、踊って歌うのです(私も歌わされました。)
楽しみ方を知っているといいますか、いつもながらその楽しむための情熱には驚かされます。(野)

フィリピン国立博物館考古学部にて

フィリピン国立博物館考古学部にて

初売り

あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

私事ですが、今年は初売りで炊飯器を買いに行きました。昨年の10月に、学生一人暮らし時代から愛用していた炊飯器が壊れ、さて新しい炊飯器を買わねば…と思いつつ3ヶ月。その間の炊飯はどうしていたかというと、実は鍋で焚いておりました。ボタンひとつで出来る炊飯器と違って、火の具合や蒸らしの時間を確かめながらの炊飯は、楽しくもあり面倒でもあり、昔の方は大変だったと痛感した次第です。芯が残っていたり水が多かったりと失敗もしましたが、炊飯器より美味しく炊けることもありました。

が、やはり文明の利器は強力で、新炊飯器は毎日美味しい「銀シャリ」を食卓に提供してくれています。

さて、年明けた有田町歴史民俗資料館で「初売り」した商品はこちらでした。

こちらは、有田陶磁美術館が所蔵している県重要文化財「染付有田皿山職人尽し絵図大皿」をあしらったクリアファイルです。1枚200円で、見学の記念に、おみやげ品に、大変ご好評を頂いております。(永)

値段:200円

サイズ: A4サイズ

販売場所:有田町歴史民俗資料館東館 有田陶磁美術館

あけましておめでとうございます

あけまして、おめでとうございます。本年も微力ながら、このブログを通じて有田の窯業史に関するさまざまな情報を発信して行きたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

新年最初なので、何かおめでたいことでもと思ったのですが、正月ボケ(?)なのか、なかなか妙案が思い浮かびません。何かないかなと思いつつ、ぼんやり目の前の陶片を眺めていると、高台の中に何やら銘が記されています。おめでたい話しと高台銘が結びつくはずもありませんが、そこは何とかこじつけて、本日はやきものに記された吉祥銘のことにでも、軽く触れてみたいと思います。

磁器の器の高台の中には、よく銘が書かれています。今では、製造した窯元の名前が一般的ですが、江戸時代には手本とした中国瓷器の銘やそれを改良した銘が記されていました。銘には「大明年製」などの中国の年号銘をはじめ、たくさんの種類があります。その中には「福」などのおめでたい文字、いわゆる吉祥銘を書いたものも珍しくありません。

「福」銘は江戸時代を通じて使われた定番銘の一つです。そのため、楷書体や篆書体などのほか、「田」の部分をぐるぐると渦状に変えた「渦福」と呼ばれるようなものなど、さまざまな書き方が工夫されています。たとえば、18世紀の下級品などでは、おもいっきり簡略化され「渦福」の渦の部分だけのものすらあり、オリジナルを知らない限り、「福」の字であることは想像すらできません。そのほか、主に17世紀に使われた「禄」銘や、まれに使われた「寿」銘などもあります。これらを繋ぎ合わせると七福神として知られる「福禄寿」になり、それぞれ“幸福”、“封禄”、“長寿”を表します。

こうした吉祥文字は、高台内だけでなく、碗などの文様としてもよく使われました。特に磁器のはじまって間もない17世紀前半には、文字を文様代わりに並べた碗なども多くあります。縦に「福 福 福」、福 禄 寿」、「寿 福」、「長 命」などと書いた文様を、碗の周囲にぐるっと記しており、これでもかというくらいおめでたそうな文様です。

当時の人達がどれだけ、吉祥文字やその意味を意識して使ったか分かりませんが、普段から「福」、「寿」なんて文字で埋め尽くされた器を使っていると、何だかそのうち幸運が迴ってきそうな気はしそうです。 (村)

渦福銘

吉祥文字銘碗