400年という時間

 3年後には有田焼創業400年を迎えます。伝統産業とよぶにふさわしい年月でしょう。しかし、途方もない時間かというとそうでもありません。

 義理の祖母は今年106歳を迎えます。義理の祖父も100歳越えでしたので。一時、義理の祖父母夫婦は合わせて200歳でした。ちなみに私の母方の祖母も105歳を迎えます。これだけ身近にいると、100歳という年齢がそれほど珍しくなくなってきます。100年生きる人にとっては400年なんて、人の一生の4回分の長さです。この世に生まれ変わりということがあるのであれば、三度生まれ変わって全うしたぐらいの長さです。

 確かに有田焼は伝統産業であることには間違いありませんが、まだまだそれだけを売りにして産業として老け込むには早いような気がします。産業の平均寿命がどの程度なのかわかりませんが、伝統の思い出に浸って、自慢話をしながら余生を送るにはまだ早すぎます。もうひと華、ふた華咲かせて、再び華やかな時代を迎えなければいけないように思います。

 今回もとりとめのない話になりました(野)。

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登り窯の名称(前編)

 このブログでは、いろんな窯跡の名称が登場します。これはもともと窯の操業当時の名称ではなく、昭和時代になって定着してきた名称です。ただし、現在は遺跡の正式名称として、佐賀県の遺跡台帳に登録されています。

 この窯跡の名称ですが、こういう内容でというちゃんとした命名のルールはありません。現在では、新しく発見されたものについては、極力字名を付けるようにしていますが、以前から発見されていたものについては、いろんな付け方がされています。もちろん、地名が多いのですが、ほかにも西登窯跡や前登窯跡のように、単なる位置関係を示すような名称もあります。柿右衛門窯跡や樋口窯跡などのように、人名に由来するものもあります。その他にもいくつかのパターンがあります。
 最も多い地名に由来するものでも、地名の対象範囲の広さはまちまちです。ほんの一角を指す地名の場合もありますし、割と広い範囲の場合もあります。たとえば、比較的広い範囲の例としては、泉山の年木谷があります。こうした場合、当然、同じ地区に複数の窯跡が所在することがあります。年木谷にも3カ所の窯跡があるため、それぞれ“年木谷1号窯跡”、“年木谷2号窯跡”、“年木谷3号窯跡”などと、ちょっと味気のない名称が付けられています。こうした例としては、ほかに“小樽1号窯跡”、“小樽2号窯跡”などもあります。

 実は、この“●号窯跡”という名称は、使う時ちょっと困ることもあります。別の意味でも使うので、混同されてしまうことがあるのです。たとえば、広瀬山の広瀬向窯跡では6基の登り窯跡が発見されています。そして、それぞれの窯跡は1~6号窯跡と命名されています。すると、特定の窯体を指す場合には、“広瀬向1号窯跡”などとなってしまうわけです。つまり、年木谷の場合には1号窯跡と2号窯跡は別の遺跡ですが、広瀬山の1号窯跡と2号窯跡は、あくまでも広瀬向窯跡という一つの遺跡に帰属する窯跡なのです。ちなみに、この1号、2号という数字は、通常、登り窯跡の発見された順番で付しており、数字の大小に特に意味はありません。

 何号という名称の使い方を説明しましたが、さて、次はどうしたもんかと困るのが、年木谷3号窯跡のように、窯場内に複数の登り窯跡がある場合です。すでに窯名に号数は使用しているので“年木谷3号1号窯跡”みたいな変な名称になってしまい使えません。年木谷3号窯跡の場合は、たまたま発見されている窯体が17世紀と19世紀のものなので、現在は便宜的に“旧窯”、“新窯”と称しています。しかし、今後その間の時期の窯体が発見された場合は、変更する必要があります。こういう時によく使うのが、“A窯跡”、“B窯跡”などのアルファベット名です。黒牟田の多々良の元窯跡では発見順にA~D窯跡としています。これは、隣接して多々良2号窯跡という紛らわしい名前の窯場跡があるからです。ちなみに、多々良2号窯跡はありますが、なぜか多々良1号窯跡はありません。

 場所名に由来するものとしては、ほかにも変わったものがあります。場所の名称というか単なる目印というか…?たとえば、枳薮(げずやぶ)という窯跡があります。泉山に位置する窯跡ですが、これはもともと『肥前陶磁史考』(中島浩氣 昭和十一年)に「泉山の枳薮丘(げずやぶのおか)の古窯」と記されているのが元となっています。“枳”とはミカン科のカラタチのことで、枝には鋭いトゲがある落葉低木です。その枳の藪になっている丘にある窯なので枳薮窯跡となったようです。もちろんそんな地名はありませんし、今は枳の薮もありません。同じような例は、ムクロ谷窯跡などがあります。漢字では“骸谷”の方を想像してしまいそうであまり気持ちの良い名前ではありませんが、実は、“無患子谷”と書きます。“無患子”で“ムクロ”と読める方は皆無だと思いますが、本当は“ムクロジ”または“ムク”の方が正解で、やはり植物の名前です。これも『肥前陶磁史考』では“無患子”と書いて、“むくろ”のふりがなが付されているのがそのまま窯名になったようです。

 このように、窯跡名の由来もさまざまで、中には、“西登窯跡”や“前登窯跡”のように、操業当時の“西登”や“前登”の名称に“窯跡”をくっつけただけのものあります。本来“登”は“窯”のことなので、これもちょっと変な名前なのですが。次回は、こうした操業当時の窯名について、触れてみたいと思います。(村)

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あるお産婆さんの記録②

 前回、古賀トヨさんは明治45年ごろに有田で産婆を開業されたと書きましたが、国内では明治32年に産婆規則と産婆名簿登録規則が発布されています。この時、初めて産婆(現在は助産師)に対する免許制度が確立し、職業としての資質水準が図られました。トヨさんの日記には有田町内、あるいは当時の有田村にいたお産婆さんの会合などもよく記録されていますが、トヨさんの他には、『肥前陶磁史考』の著者・中島浩氣さんの妻ワサさんもお産婆さんとして働き、家庭を顧みる事なく有田の歴史調査に没頭した夫を支えたそうです。

 日記の中に「産婆会」なるものが初めて登場するのは大正12年1月14日(晴れ)の日記です。伊万里であった産婆会に有田町から原さんと二人で出掛け、来会者は20余名で「梶山殿の実見談及び警察署長の話等あって、二時頃より新年宴会」とあります。会費は2円。同月18日の日記には中島ワサさんが来宅とあるので、ワサさんも当時から産婆家業をしていたと思われます。

 昭和2年8月16日(火)の日記には、「中島宅に行って、二人役場に行き、町長に合ってから…」という一文があります。何の目的かは日記にはありませんが、訪問された有田町役場にはその時のことが日誌が残っていました。そこには「中島・古賀両産婆来場、江越(米次郎・礼太次男)面接。本郡東部産婆会設置及び出産証明書の件」とあって、トヨさんたちが産婆会を結成したことが伺えます。その後、昭和3年3月9日の日記には郡産婆会が開催され、田中・中島・中山・池田さんらと共に5人で出かけています。その折に郡の中での分立について意見を交わしたが決まらなかったとあります。しかし同月25日付けの日記には有田村役場(現在の有田町本町にあった)に東部産婆会があるので中島さんらと行ったとありますので、無事、東部産婆会が設立したようです。

 このころの社会状況はというと、大正15年12月25日、大正天皇が48歳で崩御。天皇の死去から2時間後、26歳の裕仁皇太子が皇位継承のため践祚式を行い、そのあと若槻内閣によって新元号を「昭和」とすることが発表されています。つまり、昭和元年は12月25日~31日までの7日間という短さでした。古賀家でも喪章を作って子どもたちに付けさせ、国旗(半旗?)をたて、同27日の午後、子どもたちは礼服で遙拝式に行ったとあります。恐らく、町中が服喪一色で新年を迎えたのだろうと想像できます。   (尾)

 

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マニラの発掘計画、幻に・・

 年末にフィリピン国立博物館に申請を行っていたマニラの日本町の発掘調査ですが、今回は許可が下りませんでした。夏にもう一度申請する予定です。発掘の許可の代わりにマニラの出土陶磁器の調査の許可は下りましたので、2月21日から3月2日にかけて、国立博物館の収蔵庫で調査をすることができました。その結果、60数点の有田焼の陶片を発見しました。
 これまでに発見されていない種類のものも含まれており、有田焼の海外輸出の実態を知る上で大きな成果でした。

 また、今回は有田焼の海外輸出に関する番組制作のため、NHK佐賀の撮影クルーも同行していました。当初は発掘調査を撮影する予定でしたが、発掘許可が下りなかったため、収蔵庫の調査風景を撮影することになっていました。
 しかし、その撮影許可もなかなか下りず、すったもんだの挙句、彼らに許可が下りたのは、交渉7日目、帰国前日のことでした。

 交渉期間中、国立博物館内の撮影許可が最終的に下りなかった場合のことを考えて、予定にはなかったセブ島の撮影旅行(日帰り!)の日程も組まれました。私にとっては旧知の友人とも会える機会となったのですが、夜中の午前3時にマニラのホテルを出発して、セブで1日中撮影に付き合って深夜12時にマニラに戻る旅行はしんどいものでした。でも、マニラで撮影交渉が難航している彼らを見ていると、付き合わないわけにはいきませんでした。有田が元気になるよい番組になればと思います(野)。

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常設展キャプション、変更しました

 2月末より、懸念だった資料館キャプションを変更しました。昨年、参考館の方は展示を一新し、新たに展示キャプションとパネルを設置したのですが、資料館の方までは手が回っておりませんでした。
 今まで「文字が小さくて見えづらい!」という声が上がっていたのですが、中には開館初期から使用しているキャプションもあり、当然原稿もなく(おそらくワープロで作成したもの)、もちろん写真のデータもありません。というわけで、必然的に「目で見て、手で直接入力する」方法しかなく、思いの他時間がかかってしまいました。

 余談ですが、私はワープロを使ったことがありません。中高生のときでしょうか、Windous95が発売され、中学の「技術」科目でパソコンの授業を受け、高校で友達が自宅のパソコンで部活の書類をつくってきたりしました。大学入学のときに初めて自分用のパソコン(windows98)を購入しました。
 資料館で働き出したとき、「ワープロは触ったことがありません。パソコンしか使ったことありません。」と言ったところ、「え、もうそんな世代なの!」と(尾)さんから大層驚かれたのを覚えています。
 書道具、鉛筆・ノート、タイプライター、ワープロ、パソコン、ipadなどのタッチパネル式端末…などが「文字を記したもの」として一堂に展示される日も、意外と近いかもしれませんね。

 さて、新キャプションですが、文字を大きくし、全体の統一を整え、新しく判ったことを付け加えたり、新しいものをつくったりと、若干手を加えています。外国語表記などには対応できていないなど、まだまだ不十分なところはあるのですが、とりあえずデータ化できただけでも一安心といったところです。(永)

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登り窯の規模

 以前、登り窯には割竹式と連房式があることを記しました。竹を半分に割ったような形状の割竹式と団子状の焼成室を連ねる連房式です。肥前の近世窯業成立期の窯はすべて割竹式で、連房式はやや遅れて1590年代ないしは1600年代に誕生したものと考えられます。しかし、1600年代頃には割竹式は消滅し、すべて連房式になりました。そのため、その頃に窯業のはじまる有田の窯は、すべて連房式です。

 この登り窯の規模は、窯の種類によって異なり、各焼成室の規模も時代とともに変化します。たとえば割竹式の場合、全長は大きくても20m程度です。しかし連房式では、1630年代以前の窯でも小さくても30m程度で、大きいものでは60mを超えます。そして、17世紀の中頃には100mを超えるものも見られるようになります。この登り窯が、最も巨大化するのが18世紀後半~19世紀頃です。全長100mを超えるものも珍しくなくなり、150mを超えるのものもありました。

 焼成室の規模としては、割竹式の場合、岸岳(唐津市)の窯は横幅、奥行きともに2m程度ですが、文禄・慶長の役を通じて伊万里市あたりに築かれた窯は、奥行きの長い縦長の形状で、横幅は1.5m前後しかありませんでした。つまり、同じ割竹式でも種類が異なります。

 連房式の場合は、1630年代以前の窯では、焼成室はほぼ正方形で、横幅は2~3m程度の大きさです。そして40年代頃には横幅3m台が一般的になり、50年代になると4m台、17世紀後半には5m台と徐々に大型化しました。そして、18世紀後半以降に築かれた窯では7~8m台が一般的です。

 このように、登り窯が大きくなる技術的な要因としては、築窯方法の変化があります。有田では、窯に用いられる耐火煉瓦をトンバイと言いますが、これを使用する割合が時代によって異なるのです。17世紀の窯の場合、原則的にすべて粘土を塗り固めて造っており、トンバイは温座の巣と称される焼成室と焼成室の間の通焔孔を造るのが主な用途でした。しかし、18世紀になると焼成室の奥壁はすべてトンバイを積んで造るようになり、18世紀後半には側壁も含めて全体をトンバイを組み合わせて造るようになったのです。

 文献史料などから、有田の窯で最も焼成室の数が多いのは18世紀後半の広瀬向窯跡(3号窯跡)で、30ないしは33室もありました。ただし、この時期の窯は、通常焼成室の奥行きは4~5m程度ですが、この窯の場合3m台しかなく、全長は100~110m程度と推測されます。これに続くのが、『皿山代官旧記覚書』の文化十一年(1814)の記録にある泉山本登(年木谷3号窯跡)の29室で、全長は120~140mほどと推測されます。

 この頃には、内山に12基、外山に7基、あわせて19もの登り窯が煙を上げていました。最低でも全長50m程度、100m近い窯も珍しくないので、丘陵の下部から頂上まで窯が登っていたものと推測されます。それが19もあったのですから、さぞや壮観な眺めだったに違いありません。(村)

広瀬向3号窯跡

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久米邦武と有田

 明治4年から6年にかけ、約1年10カ月にわたって実施された岩倉具視特命全権大使一行による諸外国の歴訪は、新政府樹立直後の大事業でした。その使節団に随行し、体験と見聞をまとめ『米欧回覧実記』という全100巻、5編5冊にまとめたのが元佐賀藩士・久米邦武でした。
 邦武の父・邦郷は皿山代官を務めたこともあって、邦武の有田への思いは一入だったようです。使節団随行中の邦武は、イギリス・ミントン社やフランス・セーブルなどの製陶地を見聞し、さらには当時ウィーンで開催されていた万国博覧会にも立寄り視察しています。この万博には有田からも出品していましたが、これらの見聞で日本の陶磁器が世界で十分通用するという思いを確かにした邦武は、有田皿山の人々に対し、組織を整え明治9年に米国・フィラデルフィアで開催される万博に出品するように助言しました。
 これを受け、八代深川栄左衛門・辻勝蔵・深海墨之助らの窯元と商人の手塚亀之助らが合本組織・香蘭社を設立しました。この時の出品目録は㈱香蘭社に所蔵されており、その折の製品の一つが里帰りし、辻精磁社に所蔵されています。因みに、その作品は当時の記録では「切透耳無染錦菊キリ極地紋画 二尺五寸 花生一対 辻製」とあり、原価280円でした。

 その後、明治12年に経営方針の違いから八代深川栄左衛門と他の3人は分離・独立し、香蘭社は深川家の単独経営となり、他の3人はウィーン万博後に欧州産地での研修を積んだ川原忠次郎を加え、新たに「精磁会社」を設立しました。明治前期の有田焼はこの二大メーカーによって大きく飛躍したといっても過言ではないと思います。その誕生のきっかけを与えたのが久米邦武でした。

 先週、東京・目黒にある久米美術館から『久米邦武・桂一郎と有田瓷器展―肥前の精美を世界の産業に―』資料集を「時間はかかりましたが、活用していただけたら」という、伊藤学芸員のお便りとともにご恵贈いただきました。これは平成19年に同館で開催された企画展の出品解説をもとに編集された資料集で、その折開催された有田町の研究家・蒲地孝典さんによる「久米邦武と幻の明治伊万里」という講演内容も紹介されています。

 この資料集はA4判、32頁。久米美術館にて800円で販売されています。購入ご希望で、かつ郵送希望の方は、 現金書留にて800円と送料210円分の切手を 久米美術館にお送りいただけましたら、折り返し送付いただけるとのことです。
 その際には、送付先住所氏名と、「有田瓷器展資料集希望」との一言を明記してください。
久米美術館住所は下記の通りです。

〒141-0021  東京都品川区上大崎2丁目25−5  久米ビル 8F☎03-3491-1510

(尾)

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出張中

 先日(村)氏のブログにも書かれていましたが、千代田区立日比谷図書文化館で開催されている特別展「徳川将軍家の器」に、有田町教育委員会所蔵の130点余の陶片を貸し出しています。
 その他にもいろいろな所へ貸出を行っています。

 常設しているものを貸し出すことはあまりないのですが、今回こちらの藁荷を貸し出しましたのでご紹介いたします。 

 藁荷は、福岡県芦屋町の「芦屋歴史の里(歴史民俗資料館)」にて開催されている、特別展「未踏の地なし 旅行(たびゆき)商人」展に展示のため、当館から出張しています。実は、芦屋歴史の里(歴史民俗資料館)からは、当館が行った一昨年度(平成22年度)の企画展「海揚りの肥前陶磁~海に残された有田焼」展の折、エントランスに展示した和船の模型や、芦屋沖の海底から引き揚げられた有田焼などの資料をお借りしており、今回、芦屋歴史の里の企画展に際しては当館から藁荷や陶片などをお貸ししたところです。
 18世紀に入り海外貿易が下火になる中、有田焼は国内市場向けの生産にシフトします。これらの焼き物は、全国的に活躍した筑前商人や江戸通いを行った紀州商人など、伊万里津に来航した多くの商人の手によって、船で全国へと運ばれていきました。この筑前商人の本拠地の一つが福岡県芦屋で、彼らについての企画展が「未踏の地なし 旅行(たびゆき)商人」展です。

会期は1月16日から4月14日まで(入館料:大人200円)

 有田以外の場所で展示されている「有田」のものを見ると、何だか新鮮な気持ちになります。足を延ばしてみてはいかがでしょうか?

 ということで、当館の常設展示の「藁荷」は、4月まで出張中です。現物はありませんので、どうぞご了承ください。(永)

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初期の窯業

 有田では、これまでのところ、登り窯が築かれた窯場跡が66カ所発見されています。一つの窯場には、複数の登り窯が所在することも珍しくないため、登り窯跡の総数としては軽く100基は超えると思います。

 窯場跡の多くは東側の旧有田町域に位置していますが、旧西有田町域にも点在しています。この旧西有田町域の窯場は、広瀬山を除いて、窯業の成立期、1630年代以前に遡ることが特徴です。それは、現在でもそうですが、旧西有田町域には平地が多く、農業主体の生活が営まれていたからです。窯業の成立期には、まだとてもやきものだけで暮らしが成り立つような状況ではありませんでした。そのため、窯業を職業としていても、農業の場からは離れられなかったのです。
 そうした町の西半部に点在する窯場の中で、旧有田町の西端に位置する南原地区の窯場が次第に力を付けてきました。そして、その周囲に窯場が集中するようになり、従来の農業を主体とする生活圏とは別に、窯業を主体とする生活圏が芽生えたのです。
 そして、この窯業主体の生活圏が完全に確立したのは、寛永十四年(1637)のことです。この年、佐賀藩は町の西側に点在していた窯場を政治的に廃止し、黒牟田や戸杓以東の地域に集約しました。その主体を占める岩谷川内から泉山の間、後に“内山”と称される地域は、有田の方ならご存じの通り、田んぼも畑もほとんどありません。つまり、これを契機として、有田では窯業だけで生計を立てる仕組みができたのです。このように、窯場の移り変わりにも、地理的な要素が深く関わっているのです。(村)

有田町の窯跡分布図

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協議会開催

 “有田の町に 年に一度の市が立つう♪”ではありませんが、年に一回、この時期に有田町歴史民俗資料館・有田陶磁美術館協議会を開催しています。委員の方々から、当館が一年間取り組んできた事業に関して、また来年度の事業計画についてご意見をいただく場ですが、努力不足の点や事業のよりよい方策をご提示いただいたりと、毎回貴重なご意見を頂戴します。
 わたしどもにとりましては、年に一度の“通信簿”をいただく気持ちで、その日が近まると緊張感が高まりますが、2月19日(火)に終了したところです。

 今回も、HPに関して、ブログが400年事業のHPに飛んでしまうのは利用者にとっては見づらいことや、もっと動画などを取り入れてはどうかなどのご意見がありました。ただ、少し言い訳をしますと、このHPは(永)がルーティンワークの傍らコツコツと手づくりしたこと、予算は全くかけていないこと等もご理解いただいた所です。
 先生方からはグーグルマップなどを活用して大学生の研究課題としても取り組むことが可能で、おカネをかけずに出来る事はあるはずで「協力しますよ」という有難い申し出や、有田町だけではなく周辺の市町と連携した事業に取り組んではどうか等々、貴重なご意見を頂戴しました。

 さらに来年度、新たに取り組もうとしている「古老に話を聞く会(仮)」事業に関しても、環境作りをどうするか、又、記録の残し方等の方法に関して貴重なご示唆をいただきました。

 実は、不肖・尾は攻守ところをかえ、上司の許可を得て他の学校・施設や教育委員会文化財保護審議会の委員などを拝命していますが、内情の悩みや苦しみなどはどこも同じです。先日も、とある大学校の運営協議会に出席しましたが、事務方の皆さまの苦しみを実感しながら、中々適切な意見は出せませんでした。
 ただ、このように、委員の先生方から直接にいただくご意見や会議の場は、わたくしどもにとりましては新たな気持ちで仕事に取り組む貴重な機会でもあります。初心を忘れず、また、わたしどもの仕事が“有田町の歴史解明と、その成果を町民の皆さまと共有すること”にあるという理念のもとに、不撓不屈の努力を惜しまず今後精進していく所存(少々オーバー?)です。

 今後とも、叱咤激励を心よりお願いいたします。              (尾)

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近世陶磁研究会

 2月16日(土)~18日(月)の3日間、東京都の千代田区立日比谷図書文化館において開催された、“近世陶磁研究会”の大会に参加してきました。幹事を務めていることもありますが、発表もすることになっていたからです。今回のテーマは「江戸の武家地出土の肥前陶磁 – 罹災資料と初期色絵・鍋島・柿右衛門 –」で、千代田区が市民サービスとして独自に募集した方々を含め、日本の各地や海外などからも100数十名の参加があり盛会でした。

 近世陶磁研究会と言っても、多くの方々には馴染みのない研究会かもしれません。年に一度大会を開催していますが、まだ今回で3回目の設立から間もない研究会です。ただ、その前身として九州近世陶磁研究会があり、第6回からは九州近世陶磁学会として20回大会まで開催しています。幹事は佐賀県、長崎県の県・市・町の教育委員会や博物館に勤務する文化財関係の有志で、10数名ほどいます。しかし、さすがに20年も継続すると、最初はフットワークの軽かった幹事連中も、段々船頭ばかりになって漕ぎ手不足の感は否めません。やはり、“学会”と名乗る以上会員制が前提になるため、400名近くもいた会員の個人情報の管理や会計処理なども、片手間ではなかなか難しくなってきたのです。そのため、そろそろ潮時かなってことで、数年前より20回大会をもって解散することとし、最後は貯まった資金を存分に使って、世界から多くの研究者をお招きし、「世界に輸出された肥前陶磁」のテーマで大々的に大会を開催しました。

 ところが、各地の同様な研究会も、やはりご多分に漏れずです。幹事の高齢化(?)が進み、一つ、また一つと消滅し、学習や情報交換の場が急速に減少したのです。すでに実績があり個人的に情報網や人的交流を持つ中堅やベテランはともかく、これでは次世代の研究業界を担う人材の育成はできませんし、研究の遅滞を招くことにもなりかねません。そこで、再開の要望も多々あったことなどもあり、新たに設立したのが近世陶磁研究会なのです。こうなるのなら、予算残しておけば良かった…。後の祭りでしたが…。

 新幹事には、新たに若手も数名加わり、平均年齢という意味では焼け石に水とは言えども、ちょっぴり新鮮な顔ぶれになりました。また、“学会”から“研究会”にあえて格下げすることにより、年会費をいただく会員制度もスパッと止めて大会への参加費と発表資料の販売でやり繰りする形に改めました。また、会の名称から“九州”を外すことによって、他の地域の近世陶磁についてもテーマに加えられるようにしたのです。それにしても、“近世陶磁研究会”なんて王道みたいな名称が、どこかで用いられることもなく、今までよく残っていたものです。

 前身の九州近世陶磁研究会の発足以来、一貫して大会は九州陶磁文化館で開催してきました。できたら地方大会が開ければという声も幾度となく上がっていましたが、会場の準備をどうするかなど多々問題もあり、なかなか実現できませんでした。しかし、今回は千代田区日比谷図書文化館をはじめ東京近辺の研究者諸氏などの多大なるご協力のもとに、はじめて念願の地方大会を開催することができたのです。もっとも、東京で地方大会ってのも苦笑もんですが、まあ、あくまでも生産の本場はこちらなので、ご了承を…。

 不肖(村)も二日目の午後、「有田における色絵磁器の技術的変遷」のテーマで発表させていただきましたが、実は、プレゼン用資料がようやく完成したのは当日の朝でした。とりあえず、ギリギリセーフですが、こういうのはあまり精神衛生上は良くありませんね。もっとも、発表の際には必ずMacとkeynoteというプレゼンソフトの組み合わせを使用するため、ちゃんとプロジェクターから画像が表示できるのかって不安は、毎度のことながら、もっと精神衛生上よくありません。実際に、今回も開会前の初日午前の接続テストでは、繋がるまでに30分以上も要してしまいました。ついでに、今はリモコン代わりにiPhoneを用いるため、こちらも無線LANの設定とか、発表前からあれこれ綱渡り状態なのです。なので、変な話しですが、いざ発表がはじまってしまえば、逆にほっとひと安心です。

 今回は、同館の特別展「徳川将軍家の器」の関連イベントを兼ねて、研究会の大会を行いました。この展示には、有田町教育委員会からも130点ほどの出土資料を貸し出しており、有田の窯業の変遷を示す素材として、展示されていました。さすがに人口の多い東京ということもあり、多くの方々が見学されており、陶片やその説明に熱心に見入っておられる方もいらっしゃいました。こうした他地域における有田の窯業史の紹介は、単に歴史の理解を助けるという面に止まらず、現代の有田焼に無形の付加価値を加味する上でも極めて有効な手段だろうと思います。(村)

 

近世陶磁研究会の様子

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激突防止③

 2月7日のブログで、資料館のガラスに鳥が激突することについて書きましたが、どうやらこれは「バードストライク」という現象のようです。「バードストライク」とは、構造物に鳥が激突する現象をいうそうで、主に航空機に衝突する事例を指すことが多いが、他にも鉄道や、風力発電、ビル、灯台などの衝突も含まれるそうです。
 窓ガラスへの衝突の原因は、窓ガラスに反射して写った空や風景と、現実のものとの区別が出来ず激突してしまうということです。

 その「バードストライク」ですが、実はブログをあげた7日当日と、その次の日2日連続で発生しました。5日に私が窓を拭いたせいでしょうか。

 本当に偶然ですが、「バードストライク」直後、鳥が気絶している時に資料館に訪ねて来られた方が、気絶している鳥を見て、「あれは造り物ですか?」と聞かれたので、「いえ、鳥がぶつかって…」と経緯をお話ししたところ、なんと驚くことにその方は「日本野鳥の会」の元メンバーといわれるではないですか!!

 本来の要件とは関係なかったのですが、さっそく対処方法を聞いてみました。

 1.ここに障害物がある、という認識を鳥にさせればよいので、窓ガラスに鳥が飛翔しているようなステッカーを貼るとよい。
 2.小さな鳥が怖がる猛禽類のデコイ(模型)を置いたり、猛禽類のステッカーを貼ればば良い

 ということでしたので、早速ステッカーをつくって貼ってみました。

 これで被害にあう鳥が減ると良いのですが。
 なお、気絶していた鳥は、その後無事飛び立つことができ、皆で拍手喝さいして盛り上がりました。

 ちなみに本日でステッカー設置後2週間が経過しましたが、鳥の激突は一度もおきておりません。 (永)

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実は10番まであった「有田皿山節」!

 先週、小さくて精巧な雛人形の道具類ができたら…と書きましたが、赤絵町にある国の重要無形文化財保持団体の窯元では、保持団体の職人さんによる小さな、可愛いお道具の数々が制作され展示してありました。一つ一つが精巧に作られ、極めつきは「銘」までも!その寸部違わずの技の凄さを改めて実感しました。

 ところで、当館・当課には全国の博物館や教育委員会などから書籍を恵贈いただいています。これほどまでに出版物が多いのかという驚きもありますが、当然書庫は満杯の状況を維持?しています。恐らく、同様の施設では同じ悩みをお持ちではないかと思います。どれも大事な書籍ですので、収蔵に関しての名案があればご教示ください。

 そんな中に、過日、当町の文化財保護審議会委員でもある金子信二さんからいただいた書籍は私家版ということで、一般には入手できないものではありますが、大変興味深いものでしたのでご紹介したいと思います。
 書名は「西松浦郡内各地歌謡」というもので、昭和10年11月に伊万里商業学校の教諭・山下惇先生が書かれたものを、伊万里市史編纂時に当館の古文書教室講師でもある前山博先生から提示されたとのこと。市史の掲載には間に合わなかったけれど、貴重な資料なので何とか形にしておきたいという強い思いで、山下先生の文章を翻刻し、金子さんが解題と解説をつけた形で出版されています。

 収集された地区は伊万里と有田が中心で、「民謡其の他」の項目に「有田小唄」があります。「ハア~有田よいとこ弁天公孫樹 空に黄金の葉を散らす♪」に始まる現在の有田皿山節のことですが、この本には今はうたわれていないものが5つありました。例えば「川の水から磁石のものを 知った陶祖の李参平」、「春は猿川八幡様の 鬱金桜の花が咲く」、「夏は涼しく有田の町は 暑さ知らずの白河谷」など、有田の春夏秋冬あるいは歴史までもが詠いこまれています。
 これを作った作詞家の野口雨情は昭和9年12月4日に来町し、その日は丸屋旅館(上有田駅前)に投宿。翌5日に鹿島へ向け出発したことが有田町役場日誌にあります。
 現在、歌い継がれているのは5番までですが、雨情は現在うたわれている5つの歌詞を揮毫して町の関係者に贈っています。曲がつけられ披露されたのが昭和31年4月ですから、その時に元々は10番まであったものが半分になったのではないかと推測されます。

 それにしても、よくぞこの資料を書き残していただいた山下先生と、また80年後にそれを世に出していただいた金子さんに感謝いたします。

 なお、この本は有田町図書館にもご寄贈いただきましたので借りる事ができます。ぜひ、一度読んでみてください。                      (尾)

偶然

 海外で偶然、知人と会うこともたまにはあるようです。海外と言っても旅行者が出かける場所は限られているからでしょうか。かく言う私も何度か会ったことがあります。今日はその内の二つを紹介いたします。

 息子が小学生の頃、家族で韓国旅行に出かけたことがありました。その時、韓国のとある博物館の展示室で二、三人の日本人の小学生と一緒になりました。九州弁を話しているので、何気なく、「どこから?」と聞いたのですが、「有田」と答えるではありませんか。その子の名札をまじまじと見ていると、ぞろぞろと有田の小学生が現れ、その後ろから課長や教育長まで現れた時はさすがに驚きました。
 当時、有田は少年少女韓国訪問研修として児童を送り出していたのですが、その日程を全く気に留めずに旅行に出かけていた私でした。

 もう一つは有田に就職する前のことになるのですが、26年ほど前、ヨーロッパに山登りに行った時のことでした。当時の南廻りの各駅停車のような飛行機でフランクフルトにたどり着いた日の夜のことです。少し匂う大型リュックサックに登攀具をガチャガチャぶら下げて、中央駅前で安いレストランを物色していました。
 すると前の方から日本人のビジネスマンが3人ほど歩いてきます。ビジネスマンと言っても商社マンという感じではなく、霞が関っぽい人種です。すれ違う時、一瞬見た一人の横顔は日本でもめったに会わない東京在住の伯父でした。
 すれ違ったその時はまだ確信が持てず、また私自身、あまりきれいな恰好をしていなかったので、すぐに声をかけることがはばかれました。それでもやっぱり確かめようと振り返った時はもう姿は見えませんでした。

 その後、そのことをゆっくり話す機会がないうちに、伯父は他界してしまいました。あの時勇気を出して声をかけていればと今でも後悔しています(野)。

激突防止②

 さて、先週は鳥の衝突(「バードストライク」というそうです)について書きましたが、今日は人間の衝突について書きたいと思います。

 美術館・博物館の展示ケースは基本的に全面ガラス張りです。特に展示室壁面全体を使った展示では一面ガラスを使用しています。展示品の見学に夢中になるあまり、この一面ガラスに気付かず頭をぶつけてしまう方が、以外にたくさんいらっしゃいます。博物館・美術館では、展示品を劣化させないよう、わざと照明を暗くしていますので、余計にガラスとの距離感がつかめなくなり、頭やおでこをぶつけてしまいます。
 幸いに、当館は照明の具合で反射し、ガラスの存在に気づくことが多いので、あまり被害は出ていません。(私は当館でも別の博物館でも激突したことがありますが。)

 一昨年、とある博物館に行ったとき、一面ガラスの丁度目線の部分に、赤の●シールが貼ってありました。何だろう?と学芸員の方に話を伺うと、「お客さまが展示ケースに気付かずぶつかってしまうことが多く、距離感をつかめるように貼りました。」との回答が。
 なるほど、確かに丁度目線にひっかかるので、足が止まります。どこの博物館でも似たようなことが起こっているのだな、と思った反面、いろいろと対策を考えられているな、と感心しました。

 皆さんも、もし博物館の展示ケースに何か貼られているのを見かけたら、それは激突防止のためかもしれません。どうぞ頭に気をつけて見学してください。(永)

登り窯の種類

 山の斜面などに構築される登り窯には、大きく分けて二つの種類があります。一つが竹を縦に半分に割ったような形の“割竹式”と呼ばれるもので、ちょうど竹の節と節の間が一つの焼成室になる感じです。もう一つが、“連房式”と呼ばれるもので、丸い団子をいくつも連ねたような形をしています。

 最初に造られたのは割竹式でした。1580年代後半頃に岸岳(唐津市)で最初の近世窯業がはじまった時や、文禄・慶長の役(1592~98)直後の窯はこの形式です。もともと朝鮮半島で使われていた窯で、それを日本で再現したものです。
 しかし、岸岳と文禄・慶長の役の後、伊万里市あたりを中心に定着した人々によって造られた割竹式の登り窯は、少し焼成室の形状が異なります。岸岳の窯は焼成室が正方形をしており、伊万里市の窯は幅が狭く縦長の長方形をしているからです。縦長の焼成室を持つ割竹式の登り窯は、韓国の窯跡に多く見られます。
 しかし、正方形の窯は類例がなく、トチンなどの窯道具も韓国のものとは形が違っています。その他、藁灰釉製品の類似性などからも、あるいは岸岳の技術は、現在は調査が不可能ですが、今の北朝鮮あたりに由来するのかもしれません。

 一方、連房式は、これまでのところ、その技術の系譜が分かりません。というよりも、築窯技術自体は割竹式と共通する塗り壁式で、朝鮮半島の技術であることには違いはありません。ただ、この形状の窯は、今のところ韓国では発見されていないのです。
 連房式の窯は、当時中国では使用されていました。窯跡が発見されているのは、福建省で漳州窯と呼ばれる産地です。ただし、焼成室の数は2、3室程度で、全体を耐火煉瓦で造り、窯尻の部分には煙突が設けられており、肥前の窯とはずいぶん異なっています。肥前の登り窯のように、焼成室をいくつも連ねるものは、中国の景徳鎮の瓶窯を描いた絵が知られています。しかし、まだ景徳鎮では実際の窯跡は発見されていません。もしかしたら、こうした構造の窯を、朝鮮半島の技術で摸したものかもしれません。(村)

Photo1 上樊川里5号窯跡(韓国・京畿道廣州市)割竹式登り窯

Photo2 陂溝1号窯跡(中国・福建省漳州市平和県)連房式登り窯

Photo3 小溝上1号窯跡(有田町)連房式登り窯

明りをつけましょ、ボンボリに…

 有田町内では、先週土曜日から各所で“有田雛(ひいな)のやきものまつり”が始まりました。“やきもの”と銘打っているように、陶磁器製の人形をメインにした催しが行われますが、当館でもHPのトップページで紹介していますように、先週、立春の日に収蔵品の雛人形を展示しました。当館のものは焼き物ではなく、一般的な雛人形です。
 女の子の健やかな成長を祝うための桃の節句・雛まつりですが、これらは昭和の初め、白川保育園に今泉家から寄贈されたものがメインで、大小3体と御殿飾りのお雛さまです。中には親王飾りの男雛がいなかったり、三人官女が二人官女となったりしていますが、嫁入り道具の鏡台や箪笥・長持ち、牛車やお駕籠などはすべて木製漆塗りの本格派です。
 この世に存在するモノすべては、年を経るごとに古びていきますが、こと雛人形に関してはどちらかと言えば古い方が趣きがあると思うのは私一人でしょうか。

 以前、有田では旧暦の4月3日に「桃の節句」として祝う事が多かったようです。その折のごちそうは田螺を入れて「およごし」という豆腐や味噌で和えた料理を作っていたそうです。この日に田螺を食べると病気をしないといわれ、貴重なたんぱく源だったようです。その他、「ふつ餅」という、よもぎ(有田ではよもぎのことをふつと言います)を練り込み餡を包んだ餅も、この季節ならではのものです。

 ところで、有田焼の製品として、17世紀末ごろから18世中ごろにかけての色絵人形道具(ミニチュア)がオランダに輸出されていて、当時流行していたドールハウスに用いられたようです(九州陶磁文化館開館20周年記念「古伊万里の道」図録94頁に掲載)。実際に使われていた大きさの製品と形状は同じで、色絵も付けた製品ですが、今思えば随分と贅沢なものではなかったかと思います。

 雛人形の道具類の中のお茶碗や皿なども、江戸時代の有田では得意の技の一つであったようです。佐賀市でもこの季節、「佐賀城下ひなまつり」が開催され、鍋島家ゆかりの徴古館では大名家の雛人形のお道具の中に、明治期の深川製磁の製品で細かなティーセットがあります。やんごとなきお姫様もこのお道具を愛でられたのでしょうか。

 漆器類の道具は、どうしても時間の経過とともに劣化していきますが、陶磁器製のものは割れない限り、作られた当初の形や色合いを保つことができると思いますし、やはり、女性は小さな、可憐なものに心惹かれます。現在の有田焼で、精巧な雛人形の道具類ができたら素晴らしいだろうなあと一人思っているところです。                           (尾)

昆虫食

中国や東南アジアに行くと、食材として昆虫がよく売られています。主なものはタガメ、ゲンゴロウ、バッタの類でしょうか。ゲンゴロウなどはエビに近いような味がします。昆虫ではありませんが、サソリ、クモ、ムカデも屋台ではよく売られています。熱帯地方の東南アジアでは昆虫も日本のものより大型で食べ応えがありそうです。虫の生命力や繁殖力を考えますと、生産性がかなり高い食べ物かもしれません。

もちろん日本でも昆虫を食べる文化はあります。年配の方でイナゴを食べたことがある人は多いと思いますし、長野県などでは蜂の子をはじめとした昆虫食が地方の食文化として息づいています。長野県は海がないことから、動物性タンパク質の不足分を補う上で貴重なタンパク源でもあったのでしょう。私も長野県にいた頃は食べていましたが、一般的には珍味の域を出ません。

昆虫を食べるというと、眉をひそめる人が多いと思いますが、エビやシャコもよく見ると昆虫によく似ていてグロテスクですし、ナマコなどに比べると昆虫の幼虫類はまだ小さくてかわいいようにも思えます。それでも海洋生物と違って、多くの場合、昆虫はやはり毛嫌いされるようです。決して食は味覚と栄養だけの問題ではなく、それぞれ長年の風土と文化によって培われたものだからでしょう。

昆虫食をシリーズで書こうかと思いましたが、不評を買いそうなのでやめておきます。

カンボジアのとある村にて

 

激突防止①

 事務室で仕事中、時々びっくりするような音が響く時があります。外を見ると、鳥が地面にひっくり返っています。

 資料館の事務室は全面ガラス張りなので、ガラスがあることに気づかず、鳥が激突してしまうのです。残念ながら、中には命を落としてしまう鳥もいるのですが、多くの鳥は脳震盪が回復してからまた飛び立っていきます。

 新年に入ってから激突する鳥が多いのですが、おそらく年末の大掃除で窓をピカピカに磨いた為かと思われます。何とかこの現象を防ごうといろいろ考えたのですが、なかなか展示の景観を損なわないで行える良い方法がありません。

 実は大宰府にある九州国立博物館も同様の問題に悩まされ、本物そっくりの「フクロウの置物」を設置しているそうです。猛禽類がいることで、小鳥がよってこないのだとか。探してみるのも面白いかもしれません。

確かに、智恵の神でもあるフクロウは、博物館にうってつけかもしれませんね。(永)

登り窯のはじまり

 現代では、九州は日本でも窯業の盛んな場所の一つです。しかし、中世までは全国的に知られるような産地は皆無で、古代の須恵器の流れを汲む軟質なやきものが、細々と作られていたようです。その大きな原因の一つが、大陸に近かったことです。中国や朝鮮半島などのやきものが輸入されるため、自前で準備する必要もなかったのです。

 この状況に大きな変化が現れるのが、1580年代の後半頃のことです。当時、波多三河守親が山頂に城を構えていた岸岳(唐津市)の丘陵に、突如として、やきものを焼く窯が築かれたのです。成立の経緯については、今のところよく分かっていません。しかし、窯の構造や窯詰めの際の窯道具などから、朝鮮半島の技術であることは明らかです。これが“唐津焼”のはじまりです。

 特徴はいくつかありますが、その一つが最初から窯内を隔壁で仕切って小さな焼成室を連ねる登り窯が用いられたことです。当時の日本にはまだ登り窯はなく、古代の穴窯を改良したものが使用されていました。そのため、温度を均質にすることが難しく、窯の規模も小さかったのです。

 その後、文禄・慶長の役(1592~98)によって、再び朝鮮半島から多くの人々が連れ帰られました。そうした人々によってはじまったのが、福岡県の“上野(あがの)焼”や“高取焼”、鹿児島県の“薩摩焼”、山口県の“萩焼”などです。また、こうした技術が他県にもひろがって、九州各地に窯場が開かれました。つまり、九州の近世窯業は、それまでの国内の既存の窯業地の技術ではなく、もっぱら先進的な大陸の技術によってはじまったことに特徴があります。こうした技術の優位性もあって、九州は瞬く間に日本の窯業の先進地へと生まれ変わったのです。

 唐津焼に代表される九州の窯業が台頭したため、そこで使われた登り窯も日本の既存の窯業地の注目を集めました。当時、日本の最高級品と言えば美濃焼(岐阜県)でしたが、さっそく元屋敷窯(土岐市)という登り窯が築かれています。そして、次第に普及していき、登り窯が普通になって行ったのです。

 昔風の焼成方法と言えば、日本のどこでも、薪を燃料とする登り窯を用いるというイメージがあります。しかし、実は、それは最初唐津焼の窯として根付いたものが、直接的、間接的に全国に広まったものなのです。(村)

登り窯跡(広瀬向1号窯跡)

あるお産婆さんの記録①

 高校・大学時代の先輩から、「有田でお産婆さんをしていた祖母が、亡くなる日までほとんど毎日日記をつけていた」という話を伺って興味を持ったのが、この日記に出あうきっかけでした。

 その日記を残したのは古賀トヨさん。明治24年生まれで、同45年ごろから有田でお産婆さんを開業し、72歳で現役を引退するまでにとりあげた赤ちゃんはナンと5000人!その功績で、平成2年、99歳の時に国際ソロプチミストのWHW賞(婦人が婦人を助ける賞)を受賞されました。
 今でも、お産に立ち合うために当時は珍しかった自転車で町じゅうを駆け巡っていたトヨさんの姿を覚えている方もいらっしゃいます。青木元町長ら有田のリーダーたちの誕生にも立ち合い、その産声を聞いたトヨさんです。

 お隣の市で病院を開業されている御子息のお宅には、大正12年から亡くなる直前まで書き綴られた日記が木箱に入れられ保存されています。日記と言うのは個人情報の最たるものではありますが、ご遺族から特別に許可をいただいて昭和20年までの日記を読ませていただきました。その日記はほぼ毎日休むことなく綴られ、それだけでも凄い!と思うのですが、内容がまた興味を惹くものでした。
 この日記の特徴として、全体的に自分の感情はあまり書かずに、その日にあったことや仕事であるお産関係の記録、あるいは買物をした記録(その当時の有田町内の商店や物価がよくわかります)などが書き綴られ、個人の日記というよりは有田皿山の庶民史の一面を物語る資料でもあると思います。

 職業婦人として、また、自身も多くの子の母としての人生も垣間見る事ができます。例えば、大正12年1月1日付けの日記には「朝風呂に皆で行き、雑煮で年をとってから静かに一日を遊んで(トヨさんの「遊んで」というのは仕事をしないことを表現しているようです)暮した」とあります。同年1月12日には「主人は青木問屋(勤務先)に帳祝いに行った」とあり、そのころの有田の風習がわかります。
 また、石炭1俵代 1円20銭、卵10個36銭、傘1本2円など、事細かに金銭出納帳としても記録を取られているので、そのころの有田の物価がよくわかります。
 同年3月6日に娘の和子さんが「深川六助氏の葬式に行った」ことも書いてあり、このことは大正12年3月15日付けの「松浦時報」にも白川斎場で基督教による六助氏の告別式の様子が報じられ、その様子を撮影した写真も子孫の方から寄贈していただきました(館報No,88に掲載)。この会場に和子さんの姿もあったことでしょう。

 その他にも、戦時中の有田の暮し、あるいは東京の医学校等に進学した息子たちを訪ねた時の有田から東京への往復の旅の様子等、ここまで詳細に書いた日記はあまり例がないのではないかと思われる位です。これから、折を見て有田皿山の戦前史の一端を、トヨさんの日記をもとに紹介していきたいと思います。                (尾)

古賀トヨさん

インフルエンザ!

 世間では猛威をふるっているインフルエンザですが、当課・当館では縁がないとタカをくくっていた所、ちっとやそっとではくたばらないと思っていた本日ブログ担当の職員(野)が遂にダウン。
 いやー、失礼ながら思わず笑ってしまいましたが、一日も早い回復を祈っています(そうは見えない?)。
 感染したと診断されたら発症後5日間を経過し、熱が下がった後2日を経過するまで自宅で休むようにという総務課の指示で出勤停止です。すぐ近くには受験生を持つ職員もいて、戦々恐々の職場です。

雪やこんこ

 1月18日金曜日、この日、この冬初めて雪が積もりました。

 私は、通常は車通勤ですが、この日は路面の凍結のため電車で通勤することにしました。が、なんと、電車が止まっていました。上有田-有田間で事故、復旧の目途立たず…ということでしたので、頑張って車で出勤しましたが、資料館に着いたら予想通り一面の雪景色。
 しかも積もった雪は中々溶けません。どれくらい溶けないかというと、実は本日1月31日になっても、少しだけですがまだ雪が残っています。おそらく有田で唯一でしょう。

 このように雪が降った日は、子ども達が遊びに来ないかな?と思います。大人になってからの雪は、車の運転を阻害する厄介なものになってしまいましたが、子どものころは「早く学校終わって雪遊びするから、溶けないで!!」と思っていた気がします。それは今も変わらないようで、学校帰りの子ども達が雪遊びをしているのをよく目にします。
 でも通学路付近の雪は溶けていて、なかなか綺麗な雪は放課後には見つからないようです。

 しかし、資料館周辺の雪は綺麗ですよ!今度雪が降った時は、綺麗な雪を求めて資料館までぜひ遊びに来て下さい。(永)

 

昨年2月2日、午後4時に撮影した資料館の雪景色

文化財防火デー(続編)

 昨日のブログも文化財防火デーでしたが、本日もまた同じネタの続編です(単に原稿を途中まで書いてたためですが)。

 例年1月26日は、“文化財防火デー”と定められています。昭和24年の同日早朝、修復中の現存する世界最古の木造建造物である国宝の奈良・法隆寺金堂から出火し、内部に描かれていた12の壁面の絵画が焼損してしまいました。この壁画は7世紀終わり頃の作で、中国の敦煌の壁画などと並び、アジアを代表する仏教壁画の一つに数えられていました。
 この事件は、国民にも大きな衝撃を与えました。災害による文化財保護の危機を憂慮する世論が高まり、昭和25年には“文化財保護法”が制定されたのです。そして昭和30年、普及・啓発活動の一環として、当時の文化財保護委員会(現文化庁)と国家消防本部(現消防庁)が、1月26日を“文化財防火デー”と定めました。文化財を火災、震災、その他の災害から守るとともに、全国的に文化財防火運動を実施し、文化財愛護に関する意識の高揚を図るのが目的です。これに合わせて全国の市町村などでも、前後の時期に文化財の消火訓練などが行われています。

 有田町でも、町と町教育委員会、町消防本部の主催で、消防団や近隣地区などのご協力を得て、例年消火訓練を実施しています。59回目となる今年は、27日(日)の9時より、雪のちらつく(九州としては)極寒の中、大樽の陶山神社で実施しました。陶山神社を選んだのは、前回の訓練からすでに15年も経過していることもありますが、近年新たに3つの物件が町の重要文化財に指定されており、その周知を図る目的もありました。
 陶山神社にある指定文化財としては、国の登録有形文化財に指定されている磁器製の鳥居はよく知られています。これは明治21年(1888)に稗古場地区より奉納されたもので、ほぼ同じ磁器の鳥居は、他に佐賀市の松原神社と長崎市の宮地獄八幡神社にもあります。また、町の重要文化財としては、平成22年に指定された青銅製の燈籠(重第10号)と青銅製狛犬(重第11号)、新たに今年度指定された本殿の磁器製玉垣(重第14号)があります。鳥居や燈籠・狛犬などは境内の目立つところにあるので、陶山神社を訪れたことのある方なら、ほとんどの方が目にされているかと思います。しかし玉垣は、普段お参りをする拝殿ではなく、その裏の本殿に設置されています。そのため、拝殿の正面からは見えないので、ご存じでない方も多いのではないでしょうか。
 玉垣は、磁器製の擬宝珠(ぎぼし)や柱、桁、支えなどを組み合わせたもので、本殿の左右にそれぞれ“L”字形に設置されています。長さは左右ともに3.1mで、表面には手描きで美しい染付の蔓草文様がびっしりと描かれています。また、柱の部分には寄進者などの名前も記されており、その中の「奉寄進 本幸平山 弘化三年(1846)丙午九月吉日」の記述から、弘化三年に本幸平山の窯焼きなどによって寄進されたことが分かります。磁器製の玉垣自体珍しいのですが、もちろん江戸時代の作品ともなると、他には例が見当たりません。拝殿の正面からは見えませんが、ちょっと横に回ると見えますので、機会があれば、ぜひご覧いただけたらと思います。

陶山神社本殿の磁器製玉垣

 文化財防火デーの消火訓練は、一番寒い時期に行うため、どうしたらより多くの方々にご参加いただけるのかが毎年悩みの種です。知っているようで知らない消火器の使い方の講習なども行いますし、子供たちには、本物の消防車を使って放水するのを見られる珍しい機会かもしれません。また、昨年度からは、簡単に訓練場所の文化財について説明することにもしています。次回はまだ場所は決まっていませんが、より多くの方々にお集まりいただけるよう、何か方法を考えてみたいと思います。(村)

文化財防火デー

 1月26日は文化財防火デーということで、全国各地で文化財を対象とした防火訓練が開催されます。ここ有田町でも教育長以下文化財課職員総出(といいながら私事のため一人欠席した尾です)で、27日(日)の午前中に大樽の陶山神社境内で行われました。
 陶山神社は元々、伊万里・二里町にある神原八幡宮から分霊し建立されたといわれています。「皿山代官旧記覚書」には宝暦八年(1758)の日記に、その年が宗廟八幡宮として勧請以来百年になるとあって、そこから遡ると1658年、万治元年頃に創建されたということになります。その後、皆様よくご存知の文政11年(1828)に皿山を襲った台風と大火によって宝殿、拝殿、祈願所や同じ境内にあった勧請寺という天台宗のお寺までもが、残らず焼失したと記録されています。

 江戸時代は八幡宮ということで主祭神は応神天皇ですが、明治4年(1871)、今から140年ほど前に神号を陶山神社と改め社格が村社となったと、昭和13年の「神社寺院祠之調査」にあります。
 境内には神社の祭礼で神事町(祭りを担当をした町)から奉納された鳥居や狛犬などがありますが、特に焼き物の里らしい報賽物は、明治20年(1887)に赤絵町から寄進された狛犬や翌21年の稗古場区から寄進の磁器製鳥居、同じく22年の中の原区からの大甕などがあります。これらは当時盛んだった、大物作りの技術を駆使した製品で、境内には所狭しと点在しています。さらに、昨年度新しく有田町の文化財に指定された本殿の磁器製玉垣は弘化3年(1846)に作られたものです。

 また、下の境内地には明治期に有田町をリードした香蘭社社長八代深川栄左衛門さんや白川学校(現在の有田小学校)の初代校長江越礼太先生の顕彰碑などもあり、さながら野外の歴史博物館のような感じで、境内を一巡すると有田の歴史の一端が伺える、そういう場所ではないかと思います。

 もう一つ、陶山神社には珍しい光景があります。それは境内地にJR佐世保線が通っているので敷地内に踏切があり、石段を登って参詣する時には要注意です。この鉄道は九州鉄道として明治30年に開通しています。当初はもっと町中を通る計画だったそうですが、汽車の振動や窯の焼成に使用した石炭の煤煙で焼き物作りに支障をきたすなどという反対があって、山際に敷設されたという話も残っています。

 今年も有田町消防署や消防団、地域の皆さまのご協力のもとで、訓練も無事終了したとのこと。早朝から、また寒い中を本当にありがとうございました。これからも地域に残る文化財を大切に保護し、次世代の人々へ伝えていきたいと思います。      (尾)

                

マニラの発掘

私がマニラを初めて訪れたのは、今から9年前の2004年のことです。スペインのガレオン船で有田焼がマニラから太平洋を越えて運ばれていたとする仮説を考え始めたのは、それよりもさらに10年以上前のことになります。仮説をまとめるまでの時間に対して、その証明となる陶片の発見はひどくあっさりしたものでした。初めてのマニラに到着して数日後、たまたま立ち寄った博物館の別棟の収蔵庫の窓際の机の上に見覚えのある文様の陶片がころがっていました。それがマニラで初めて見つかった有田焼の陶片でした。劇的な発見ではありませんでしたが、太平洋を舞台にした陶磁器貿易の研究の始まりでした。

そして、少し大げさかもしれませんが、その後の9年間の私の生活を変えた陶片でした。マニラでの発見の際に知り合った台湾の研究者が縁で、マカオやヨーロッパ、アメリカの研究者と知り合い、さらにメキシコ、グアテマラと親交の輪が広がっていきました。その中には有田焼の故郷がどんなところかと有田を訪ねてきてくれた人も少なくありません。

さて、年末にマニラに出かけて、フィリピン国立博物館に発掘計画書を提出してきました。無事に許可が下りれば、2月中旬から3月中旬の1か月をかけて、マニラの市街地の発掘調査を行う予定です。マニラで初めて有田焼の陶片を発見した時から温めてきた計画です。発掘資金は三島海雲記念財団と三菱財団にお世話になります。共同で調査研究を行うのは、1998年のカンボジアの調査以来、一緒に仕事をさせていただいている上智大学のフィリピン考古学者である田中和彦さんです。17世紀にマニラに渡った日本人、そして、マニラに運ばれた有田焼が明らかになればと期待しています。問題は年次休暇の大半を新年が始まってからいくらもしない間に使ってしまうことでしょうか。(野)

マニラ発見の有田焼

 

日本の磁器に染付が多いのは?

普段目にする日本の磁器には、紺色の絵具で絵が描かれているものが多いのはご存じだと思います。これは呉須と呼ばれる酸化コバルトを主成分とする天然の顔料で、日本ではほとんど産出しないため、江戸時代には、もっぱら中国からの輸入に頼っていました。この呉須で描画した製品は、日本では“染付”と呼ばれています。ちなみに中国では“青花”、韓国では“青華白磁”と呼ばれます。もともと、白い磁胎に呉須で絵を描く製品は、元時代の終わり頃の14世紀に、中国の景徳鎮で発明されました。それが明時代には、それまでの青磁に代わって磁器の主流となり、現代に引き継がれているのです。

有田ではじまる日本の磁器は、豊臣秀吉軍が朝鮮半島に出兵した文禄・慶長の役(1592~98)などの際に、連れて来られた人々の技術によって成立しました。ところが、当時の李氏朝鮮時代の磁器は、無文の白磁が基本で、“青華白磁”は王室などごく限られた環境で使われていたに過ぎません。しかも、王室でも基本は無文の白磁だったのです。こうした特殊なものであったため、当然日本に伝わった技術の中には含まれていませんでした。

ところが、日本の磁器は誕生した時から“染付”を基本としていました。逆に、無文の白磁はほとんどなかったのです。では、なぜ無文の白磁の技術しか持たなかった人々が、最初から“染付”を基本にしようと考えたのでしょうか?おそらく、朝鮮半島に居住していた頃には、呉須など使ったことがなかったはずで、原料さえあれば簡単にできるというものでもなかったはずです。

これには当時の社会的な事情がありました。というのも、日本で磁器が発明される以前から、すでに日本の国内でも磁器はたくさん使用されていました。しかし、そのほとんどは中国からの輸入品であり、朝鮮半島の製品は茶の湯の際の茶碗などとして、ごくわずかに使われていたに過ぎなかったのです。つまり、磁器(当時は“磁器”という言葉はありませんが)として売るものを作るには、中国風な“染付”を基本とすることが必須条件だったのです。そのため、実際に陶工が来たのかもしれませんが、不足する部分を中国の技術で補ったのです。

つまり、日本磁器は“染付”を基本とするというルールは、有田の先人が確立したのです。それが磁器生産の技術が拡散する過程で全国へと伝わり、現代に引き継がれているのです。もし、有田の先人が、保持する朝鮮半島の技術どおりに磁器を開発していたら、今の日本でも白磁が基本となっていたかもしれません。(村)

初期の染付中皿(1620〜30年代 天神森窯跡)

 

町屋で昔話を聞く会 開催しました

先週の土曜日(19日)に、有田内山地区の伝統的建造物群保存地区内(通称伝建地区)の1軒の町屋をお借りし、恒例の「町屋で昔話を聞く会」を有田町公民館との共催で開催し、13人の子どもたちやその保護者の方々と一緒に楽しみました。

これは、平成3年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定を受けた有田内山地区に残る町屋の中で、有田に伝わる伝説や昔話、絵本などの読み聞かせを行うもので、平成17年から始めた取り組みです。読み手には第1回目から続けてお願いしているのですが、今回も町内の図書館や小中学校などで活動されている「ひこうせん」の方々にお願いし開催しました。

いつもは、有田の伝説「黒髪山の大蛇退治」もメニューの中にあるのですが、現在、有田町図書館で大型紙芝居を作成中とのこと。今回の会には間に合わなかったので、完成後に披露を兼ねて、次の機会にとっておこうと思い、今回は「かぜのかみとこども」、「びんぼうがみとふくのかみ」などのお話をしていただきました。

それから、生涯学習センターがある本町までの約1.5㎞を歩いて帰っていきましたが、途中の家々の玄関先には伝建プレートが取り付けてあるので、それも探して行ってねと伝えましたが、みんな見つけてくれたかな?

会場となった心月庵は、以前、郷土史家として活躍され、私どもも大変お世話になった故松本源次さんの旧宅です。大正時代に建てられた建物で、家の内部は改装されています。松本さんの本家は道を挟んだ所にあり、以前、松本源次さんが著した「松本庄之助伝」には明治22年に着工し、同26年までを第1期、同29年までを第2期、さらに同38年までの追加工事を含めて、足かけ16年の時間をかけ、総工費3128円で完成したことが記されています。

その家を建てるにあたり、水害まで伴ったという「文政の大火」の惨状を聞かされてきた庄之助さんの母ともさんは、火事に対処するために建物の周辺に相当の空き地を必ず備える事、大水に対しては少なくとも1間(約1.8m)以上、道路面より高くすることなどの注文を息子にしたそうです。恐らく建設当時はあったであろう周辺の空き地は、今は確認できませんが、道路面からの高さは確認することができます。先人の知恵を引き継ぐ心構えのようなものが感じられる逸話です。(尾)

心月庵2階からみた「松本家本家」

コピー商品

私は1998年から2002年にかけて、カンボジアのアンコール遺跡群のタニ窯というクメール陶器の窯跡の発掘調査を行っていました。カンボジア国内では初めての窯跡発掘調査でした。その際、シェムリアップの市場によく出かけたものです。

今回の写真は、他のブログでも紹介したことがあるものですが、そのシェムリアップの市場で見つけた「National ナショナル」の模倣のいろいろなパターンです。どれも14インチ型のテレビの包装段ボール箱のようですが、そのブランド名はNationnal(nが一つ多いです。)、Natonnal(iがなく、nが一つ多いです。)、Natiional(iが多いです。)などさまざまです。怪しげな偽物のパッケージを3種類もつくる必要があるのか疑問ですが、その他にもsonny(ソニーsonyのことか)、Asahi(背景には旭日のデザイン)、JAPAN(そのままです。)など日本を思わせるブランド名が当時は数多くありました。もちろん知的財産権の侵害であることは確かですが、それでもあやかって真似される内が華なのかもしれません。

あやかると言えば、100円ショップで「有田の風」(有田風という意味でしょうか)と書かれたシールが貼られている焼き物を見かけることがあります。およそ有田で焼いたものとは思えませんが、有田焼の高級なイメージにあやかったものでしょう。イメージ低下につながりかねず、あやかられる内が華と笑えないかもしれませんが、あやかられなくなったら寂しいものでもあります。

さて、10年ほどカンボジアから遠ざかっていますが、今のシェムリアップの市場ではどの国のコピー商品が売られているでしょうか。(野)

 

 

 

 

 

 

 

 

いずれもシェムリアップの市場にて

有田皿山遠景

皿山シリーズの最後にご紹介しますのは「有田町歴史民俗資料館叢書 有田皿山遠景」です。 

この本は‘有田の語り部’といわれていた池田忠一さんの懐古談を、中島浩氣さん作の『肥前陶磁史考』を背景に、元有田町歴史民俗資料館館長森田一雄さんが構成したものになります。明治・大正・昭和の有田でおきた出来事、名工と呼ばれた職人さん、窯焼きの妻や母、有田が誇る偉人などについて、97項目の事柄を分かりやすい文章で語っています。「あ~、そん話は聞いたことあるばい!」「こん人会ったことあるばい!!」と感想を話してくれた方もいらっしゃいました。

思えば、私が編集に参加した2冊目の本になります。1冊目は図録でしたので、「読み物」としての編集は初めての体験でした。それまで漠然と文章を書くのだけが大変だと思っていましたが、それを「本」という体裁に整えるのもまた大変なのだと、しっかりと身にしみて思い知ることになった1冊です。(本の索引は便利ですが、作るのがこんなに面倒だったとは…)

このとき名文を書かれる元館長の教えを受けたはずですが、私の文章はいまいちパッとせず、このブログもなんとかひねり出して書いている次第です。発展途上の様子をどうぞ末永く見守って下さい。(永)

値段:1800円

サイズ: 四六判(127×188cm)

販売場所:有田町歴史民俗資料館東館 有田陶磁美術館