3.皿山とよばれるわけは?

皿山とよばれるわけは? 泉山・上の番所跡

◇有田皿山とは、有田陶磁器生産地の総称です。その村々を指す言葉でもあります。「皿山」とは、九州地方では陶磁器の生産地を指し、そこで焼かれたものを「皿山焼」とよぶことがありました。有田では、登り窯のある陶業地のことを、はじめ「皿屋」といい、のちに「皿山」というようになりました。
◇有田皿山は、内山・外山・大外山の3地域に区分されました。内山は現在の地区で分けると、泉山・中樽・上幸平・大樽・幸平・赤絵町・白川・稗古場・中ノ原・岩谷川内。つまり旧有田町の地域。外山は、有田町中部の外尾山・黒牟田・応法山・有田町西部の南川原山、西有田町の広瀬山・伊万里市の大川内山・一ノ瀬山。大外山とは、山内町の筒江山、武雄氏の弓野山・小田志山、塩田町の志田山、嬉野町の吉田山・内野山の六か所をいいました。
◇この場所は、江戸時代佐賀本藩によって口屋番所がおかれたところです。岩屋川内にあった「下の番所」に対して、「上の番所」とよばれていました。口屋番所の中でも特に泉山番所は、石場(磁石場)に近く、早朝から日暮れまで人馬によって焼き物土の出入りが片時も絶えませんでした。少しでも他領などへ盗み出す者がないよう、人や陶石の監視にあたっていたのです。
◇有田において磁器が初めて焼成されたのは江戸初期ですが、その年代はまだ確定されていません。慶長の朝鮮出兵の際、鍋島直茂が連れ帰った李参平(金ヶ江三兵衛)が有田の乱橋(三代橋)に住みつき、泉山で陶石を発見し、初めて白川の天狗谷窯で磁器の焼成に成功しました。この年代は、通説では1616年(元和2)とされていますが、近年の考古学研究では、それ以前に焼かれていたとする説も出てきています。なお、「有田皿山」という地名は、行政上では1889年(明治22)の市町村施行の際に消えています。
(浦川和也)

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窯跡と発掘調査(4)

 これまで、“窯跡と発掘調査”というタイトルながら、長らく直接窯跡の発掘調査の話題が出てきませんでした。ようやく本日からは、これまでの有田の窯跡の発掘調査の経過について、少しずつ記してみたいと思います。

 有田で、窯跡の発掘がされるようになったのは、前回も触れましたが1958年(昭和33年)のことです。もちろん、それ以前から、陶片の採集などは行われていましたが、“古伊萬里調査委員会”という調査団を組織して、はじめて窯体の発掘調査が実施されたのがこの年なのです。
 この委員会は、当時、地元の陶磁史研究の拠点であった有田陶磁美術館を本部とし、会長に当時の佐賀県知事鍋島直紹(なべしまなおつぐ)氏、調査委員長には手塚文蔵氏をあて、永竹威氏や池田忠一氏など地元の研究者、今泉今右衛門氏(12代)・今泉善詔氏(13代今右衛門)、酒井田渋雄氏(13代柿右衛門)、深川栄左衛門氏をはじめとする製陶業の方々のほか、数十名が参加されています。この調査は、1959年(昭和34年)に『古伊萬里』(株式会社金華堂)としてまとめられ、発掘以外にも文献や美術史的な視点などから、さまざまな論考や随筆が掲載されており、水町和三郎氏、鷹巣豊治氏、中川千咲氏、磯野信威(風船子)氏、小山富士夫氏をはじめ、当時としてはかなり豪華なメンバーが執筆されています。

 この時の調査では、稗古場窯跡の窯体の発掘が実施されており、6日間で地中深く埋もれた焼成室の一室が掘り出されています。写真で見る限り、奥壁や側壁の立ち上がりも残り、良好な状態で遺存していたようです。
 稗古場窯跡は、現在では町の指定史跡になっており、現地に深い穴が残っていますが、これはこの発掘の時のもので、今でも窯壁の一部を見ることができます。そのほか、この調査の際にはメンバーを5班に振り分け、有田各地の窯跡の陶片採集も行われています。この時集められた陶片類は、現在、有田町出土文化財管理センターなどで保管しています。もっとも、当時はまだ参加者におみやげ(?)として分配されることもあったようなので、全部ではありませんが。

 この有田ではじめての窯体の発掘調査は、前回記した発掘調査の種類で言えば、歴史解明が目的なので、当然、学術発掘ということになります。ただし、この調査は、参加者の構成からも明らかなように、考古学的な手法にのっとった発掘調査ではありませんでした。そのため、土層を分けるなどといったことは、まだ意識されていませんでした。

 有田の窯跡において、部分的にでも考古学的な手法が取り入れられたのは、稗古場窯跡に続いて1965年(昭和40年)~1970年(昭和45年)に実施された、天狗谷窯跡の発掘調査からです。これについては、また次回説明したいと思いますが、この頃には、まだ考古学は、美術史や文献史学を補完する学問という意味合いが強く残る時代でした。(村)

稗古場窯跡の発掘状況

稗古場窯跡の復元推定図

※写真と図は、古伊萬里調査委員会編『古伊萬里』1959より転載

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陶器市の歌

 瞬く間に怒涛の一週間が過ぎ、また静寂な日常が戻って来た有田です。先日、ある会議で「小学校のころ、陶器市の時に旗行列をしたが、その時、この歌を歌いながら行進したよ」という思い出と共に、歌詞と楽譜を見せていただきました。そこには「陶祖祭の歌」とありました。

 当館が以前、何人かの人から伺った時は「陶器市の歌」という題名だったのですが、どちらが本当でしょうか。その歌詞ですが、①日本白磁の発祥地 有田の町のゆかしさよ 時は寛永李参平 陶業はじめて三百年 ②泉の山の発見は 天恵無尽の白磁鉱 瑠璃玲瓏の美質もて 品質堅牢類なし(又は其の比なし)と、2番まではほぼ同じ文言ですが、その後がいろいろ。原資料の記録として残っているものは今の所わかりませんが、「旗行列をしたよ」と鮮明に記憶に残っている方々が思い出していただいて文字にし、何とか記録として残してきました。

 メロディーは「鉄道唱歌」の節で歌っていたとのこと。鉄道唱歌そのものは明治期に作曲されているそうですが、その節回しを使って有田独自の歌詞が作られたようです。ただ、有田の歌詞は誰が作ったのかはよくわかりません。歌詞の中にある「陶業はじめて三百年」や「道路改修進みゆき」などの文言から推測すると、大正5年(1916)の創業300年以降、昭和7年(1932)の道路拡張・改修工事の間に制作されたものではないかと思います。

 当館には昭和20年代の写真があり、その中に旗行列をしている姿が写っています。(尾)

旗行列の様子(昭和28年) 有田町歴史民俗資料館蔵

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学費

 昨日、某大学で非常勤講師として講義を行いました。その大学で一番大きな教室に受講生が300名という大人数でした。これ以上、人を入れようとすると講堂しかないそうです。新学期が始まったばかりだから多いのかと思えば、そうではなくて、毎回、出席レポートを提出しなければならない講義らしく、それで欠席者が少ないということでした。それにしても講義をするには少し多すぎます。

 とても静かに聴いてくれる気持ちのいい学生でしたが、300名もいれば、ところどころ寝ている学生もいました。といいますか、講義が始まる前から寝ている学生もいました。考えてみれば、私もよく寝ていたなと思いながら、また教壇から見ると300人ぐらいいても寝ているのがよくわかるもんだなと妙に感心しながら、講義を90分きっかり行いました。

 学生たちは1年生と2年生ということでしたので、私の大学生の息子や姪っ子とそう変わらない年頃です。そうかと言って彼らを見て、息子や姪っ子を思い浮かべたわけではなく、むしろおそらく私と同世代であろう彼らの親御さんたちを思っていました。見返りの期待もできず、決して小さな額ではない学費を大学に納めて、お互い子供のために大変だなあ、と。何かしらまだ見ぬ同士のような親近感を覚えたものです。

 そう、前から3列目の席で寝ていたあなた。あなたは聴いていなかったかもしれないけれど、私はあなたのためだけでなく、あなたのお父さん、お母さんのために講義をしていました。目の前にしている学生のためであることはもちろんなのですが、彼らの両親のためにも真面目に講義をしなければと思いました。自分が学生の頃には思いも及ばなかった感情です。(野)

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ブログの反響 ~バードセーバーとワープロ~

 ゴールデンウィークは如何お過ごしでしたか?有田町はゴールデンウィーク期間中、皆さま御存じの「有田陶器市」が開催されているため、「世間は休みでも有田は大忙し」な状態でした。
 有田生まれ有田育ちの私は、小学生(今は知りませんが、私の時代は陶器市期間中の平日は学校がお休みになりました。その分夏休みが減らされたのですが)のころ「ゴールデンウィーク」とは「有田陶器市」の別名だと本気で思っていました。「ゴールデンウィーク」=「大型連休」とはつゆ知らず、このたくさんの人はどこにいたのだろうと不思議に思ったものでした。当時の私にとって陶器市とは、お手伝い(客よせや梱包)をし、おこずかいを貰って出店の焼とうもろこしを食べるのというものでした。

 さて、ブログを初めて7カ月目に入りました。本日は少しだけブログの反響とその後をご紹介したいと思います。

 一つ目は、2012年2月21日に書いた「バードストライク」について。「そんなにぶつかるんですか?」という声から「効果はありました?」という声、ほかにも「今度激突したら焼き鳥に…」なんて冗談もあったそうですが、さてどうなったのでしょうか?

 何と、ステッカー(バードセーバー)設置後、一度も激突しておりません!!

※実は1回鳥がかすったことはあります。たまたま外でその様子を見ていたのですが
バードセーバー付近で失速(急ブレーキ)したように見えました。

 どうやらとても効果があるようですね!!

 二つ目は、3月7日のブログで書いた「ワープロを使ったことがない」発言について。「うそ!本当に使ったことないの!?」という声から「その世代からワープロは使わないんですね…」と年齢を逆算されたり、「自分達のころは学校卒業したらタイプライター専門学校に行く人が多かったですよ~」とワープロ普及前の事情をお話してくれた方もおられました。
 モノ(ワープロやガリ版印刷機など)は保管しているので、本当に「印刷の歴史」展をするかもしれません。

 また何かブログに関する反響やその後の出来事があれば紹介させて頂きます。(永)

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窯跡と発掘調査(3)

 前回までは、窯跡の考古学的調査に関して記してきました。本日は、引き続き発掘調査の種類について述べてみたいと思います。
 発掘調査には、一般的に“学術発掘”と“行政発掘”と呼ばれる種類があります。学術発掘は、その名のとおり学問的な問題を解決するための発掘調査で、行政発掘は開発行為などに対応するために先立って行う発掘調査です。同じ発掘調査ですが、目的が異なるため、対象遺跡の選定方法も調査方法も異なります。

 学術発掘は、学問的な問題を解決するための自主的な調査であるため、対象遺跡はその目的に合致したものの中から、原則的に自由に選択できます。また、遺跡内の調査地点や調査面積に関しても、調査目的を達成する上での必要性に応じて、調査主体者が適宜決定します。
 一方、行政発掘は、開発行為等に先立って行う調査であるため、基本的に学術的な面が一義的な目的ではなく、工事等によって破壊される遺跡を発掘調査報告書などの形で、“記録”として残しておく(記録保存)というのが目的です。そのため、いくら学術的な重要性があっても、開発地点以外の場所を掘ることはできませんし、遺構が調査区外に続いている場合であっても拡張して掘ることもできません。逆に、学術的には当面発掘の必要のない地点であっても、掘らないという選択肢もないのです。
 このように、二種類の発掘は一見似ているようでまったく違うものなので、両方の発掘によって判明することも、必ずしも同じではありません。学術発掘が主に解明すべき目的に注力するのと異なり、原則的に、行政発掘は対象地点内で得られた情報を網羅的に記録に残すことが求められるからです。ただし、予算にも期間にも限りがあるため、重点的に力を注ぐ部分もあれば、多少軽く流す部分があるのも確かですが。

 有田に限りませんが、もともとは学術調査が主体でした。しかし、今日では全国的にも発掘調査の90数%が行政発掘で占められているように、有田でもほとんど学術調査は行われていません。そのため、町の教育委員会が調査主体となる発掘も、かつては学術発掘がほとんどでしたが、今日では、ほぼすべて行政発掘となっています。

 有田で窯跡の発掘調査がはじまったのは1958年(昭和33年)ですが、1970年代頃までは学術調査が主体で、行政調査はまれでした。ただし、この頃までは、発掘調査自体それほど多かったわけではありませんが。しかし、日本の経済成長が続くにつれて開発行為が頻繁に行われるようになり、1980年代には行政発掘が一般的になりました。そして、1990年代にかけて、毎年数か所の窯跡の発掘調査が実施されるようになったのです。
 もっとも、この1980年代後半から1990年代の行政発掘は、厳密に言えば、そのほとんどは具体的な開発行為を伴うものではありませんでした。きたる開発に備えて、事前に窯跡の範囲や時代、性格など、基礎データを蓄積しておくのが目的だったからです。そうすることにより、開発に際して、事前に遺跡の範囲を回避することや、迅速で柔軟な対応ができるのです。

 学術発掘の場合は、学問的な課題の解明を目的とするため、たとえば「磁器発祥の窯跡」、「柿右衛門の名品を焼いた窯跡」など、有田の陶磁史を語る上でキーとなる窯跡が対象として選ばれることが多いのが特徴です。そうしたこともあり、現在、国・県・町などの指定史跡となっている窯跡は、ほとんどこの学術発掘が主体の時期に調査されたものです。
 このような史跡指定された窯跡は、文化財保護法や保護条例上、開発行為が難しくなります。しかも、特段の発掘理由が必要となるため、同様に発掘調査自体も難しくなるのです。したがって、すでに調査が行われていることもあり、あらためて行政発掘する機会はぐっと減ります。こうしたこともあり、学術発掘と行政発掘された窯跡の調査例は、さほど重複がないのです。
 もっとも、それ以前に、基礎資料収集のための行政発掘の場合であっても、窯跡を選択する場合、歴史的重要性は優先的な条件ではなく、開発の危惧が最優先される条件です。つまり、開発の危険性の少ない史跡指定された窯跡は、もともと発掘の優先順位としては低いのです。この頃の発掘調査は、とりあえず、早く基礎資料を集めることが重要でした。そのため、表現は悪いかもしれませんが、スピード感が第一で、じっくり咀嚼しながらというよりも、掘れる窯跡はバンバン掘ったというのが実情です。

 こうした発掘の急増によって、窯跡の範囲をはじめとして、基礎的なことはかなり分かってきました。しかし、学術発掘ではないので、歴史解明とは無縁かと言えば、もちろんそんなことはありません。かつての学術発掘では、まず対象にならなかっただろうと思えるような窯跡まで網羅的に調査が進んだことから、さまざまな視点から、有田の窯業史を捉えられるようになったのです。膨大な量の資料が積み上がったことにより、それ以降、有田の窯業史の解明は飛躍的に進歩しました。ただし、スピード第一で突き進んできた分、調査した窯跡のすべてにおいて、必ずしも情報を十分に引き出せているとは言えません。よって、これからは、資料に込められた情報を可能な限り引き出し、いかに有効に活用できるかが重要になってくるかと思います。(村)

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あるお産婆さんの日記③

新学期が始まって早や1カ月が過ぎました。通勤時にとある小学校の前を通りますが、ランドセルに黄色のカバーを付けた新一年生が元気に登校している様子に、次第に学校生活に慣れ親しんでいく様子がわかるようで、微笑ましく感じます。

学校生活の中で、この時期に行われるのが家庭訪問です。自分が生徒の時にはさほど気にも留めていなかったものの、いざ受け入れる保護者の一人であった時期は緊張のひとときでした。この家庭訪問、一体いつごろから始まったのでしょうか。

トヨさんの日記の大正12年5月11日には「午後福島先生が家庭訪問に来られた」とあります。兄弟が多かった古賀家の誰の先生だったかはよくわかりません。でも、少なくとも大正時代には「家庭訪問」という学校行事が有田であっていたことは確かです。

また、古賀家が住んでいた家は上幸平地区にありましたが、ここと中樽地区のみで行われる「山王祭り」というものがあります。12年に一回、申年の5月に行われる行事で、昭和7年(1932)にもあっています。祭りは23日に行われましたが、その前から地域の人々は準備を始めています。この年には道路拡張も終了しています。日記には19日に「猿を作り、夜は米一方に茶講に行きてから稽古に行き、11時頃帰って寝た」とあります。さらに22日には信子さんの衣装を作り、午後と夜にも稽古をしています。そして当日の23日は好天に恵まれ、猿を下げたり幕を張ったりして上幸平から中樽へと廻っています。恐らく、三味線の音色に合わせて踊ったのでしょう。

それから次の申年は昭和19年になります。第二次世界大戦真っ只中で、この年の陶器市は中止でした。山王祭りも中止されたのかなと思ったのですが、ところが…。昭和19年5月20日。この日は雨ながら、戸口に猿を吊るして飾り、上幸平の天神さんの境内では子ども相撲も開催。非常時ながら、お祭りは開催されていたことがトヨさんの日記でわかります。

さらに昭和31年の山王祭りはモノクロながら映像も残っています。この祭りの謂れや歴史はよくわからない点も多いのですが、二つの地域で守り継がれている行事の一つです。次の山王祭りは3年後、奇しくも2016年、有田焼創業400年の年になります。         (尾)

平成16年の山王祭り

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窯跡と発掘調査(2)

 前回は、考古学的な発掘調査をする上で、窯跡という遺跡はどんな存在なのかということについてお話ししました。では、この考古学的な手法による窯跡の発掘調査とはどのように行うのでしょうか?本日は、そのあたりについて簡単に記してみたいと思います。

 前回、これまでにみずから40か所近い有田の窯跡を調査してきたと言いましたが、一つの窯跡を何度か調査することもありますので、実際には調査数自体は40回を軽く超えます。また、窯体自体は発見できなかった窯跡もいくつもありますが、逆に、一つの窯跡には複数の窯体が埋まっていることも珍しくないので、調査した窯体数という意味では50基を超えています。こうして数をこなせば、発掘調査の際に、それだけ直感が働く場面が多くなります。

 登り窯跡の発掘の際に、主に調査対象となるのは、窯の本体と失敗品を捨てた物原です。調査方法としては、あらかじめ調査区内全体をマス目状に区切っておくグリッド法と、任意の場所を選んで掘削するトレンチ法に分けられます。おおむね大規模な調査の場合はグリッド法、小規模な調査や本調査に先立つ事前調査の場合などはトレンチ法を用います。
 調査方法に関わらず、通常は、まず窯体の位置を特定し、それを元に掘削の方向を定めます。これは、特に決まりというわけではないのですが、経験上、窯体に可能な限り垂直や水平方向に掘削溝を設けた方が、土層の堆積などにおいて、より良い情報が得られるからです。そのため、特にグリッド法を用いる場合などは、グリッドを組む際、つまり発掘する以前から窯体の方向を捉えておく必要があります。これは、事前調査などで確認することもありますが、慣れてくると、地形や遺物の散布状況などから、地面の下に埋もれている窯体の位置や方向が掘らなくても分かる場合も珍しくありません。
 実際の掘削では、物原と比べると窯体は、経験を積めば難しいものではありません。熔融した硬い壁を見つけられれば、それを手がかりに周辺に掘り広げて行けばいいからです。もちろん、焼成室の壁や床の修復など、複雑な遺存状況の場合などもあるため、簡単というわけではありませんが。とりあえず窯体は、慣れた作業員さんだと、そのうち一人でも掘れるようになります。

 一方、物原は、いくら慣れた作業員さんでも、掘り進めることはできません。いや、もちろん土自体は掘れるのですが、自分で土層の違いを確認しながら、掘ることが難しいのです。土層堆積の原理自体は簡単です。毎回、焼成の際に失敗した製品や土砂は、窯体の片側に隣接する谷に投棄され堆積します。たとえば、積み木を積んでいるようなもんで、下の積み木ほど積んだ時間が早く上ほど新しくなります。つまり、下の土層が古く、上に堆積するほど新しいという至極簡単なことです。単純に言えば、原理はこれだけなのです。
 ところが、原理は分かっても、実際に土を層ごとに区分することは、そうたやすくはありません。しかも、通常、斜面に堆積している土層なので、水平ではなく、斜めに堆積しています。さらに、人為的に捨てた遺物や土砂が多いので、狭い範囲にしか堆積していません。1m離れると、別の土層が堆積していることなど珍しくないのです。しかし、この層位的な調査を放棄してしまうと、窯跡の調査の醍醐味も意義も薄れます。各土層には、その土層が堆積した時点でのさまざまな遺物が含まれており、別な言い方をすれば、その時期の技術や流行などさまざまな情報が詰まっているからです。土層ごとに含まれる情報を順に並べれば、歴史的な変遷が明らかになるのです。

 ところで、窯跡に堆積している土層には、大別すれば自然堆積層と人為的な堆積層があります。自然堆積層は、その名のとおり自然に堆積した層で、普段あたりを見渡すとだいたい地表面に黒っぽい層が堆積していますが、それが自然堆積層です。たとえば、災害などで短期間に堆積する場合もなくはありませんが、通常は、長い期間をかけて徐々に堆積します。遺跡全体に広い範囲で堆積しているのが特徴ですが、窯跡の場合は自然堆積層は例外的です。もちろん、窯跡でも地表面の土は自然堆積層が一般的ですが、ほかには物原の最下層にもよく見られます。これは、窯跡が構築された当時の数百年前の表土層で、これが発見されると、最下層まで到達したことが分かります。また、まれに物原の土層の途中に自然堆積層が現れることがあります。これは、窯の操業の途中に休止期があった場合などで、うまく文献史料などにその記録が残っていれば、土層の実年代が明確になります。

 一方、窯跡で一般的な人為的な堆積層は、色調の違いから、白、黒、赤、黄あたりに大別できます。もちろん、実際にはもっと複雑ですが、たとえば窯の中の砂を掻き出せば、白い砂が貯まります。また、同じく炭の場合は黒、窯体が壊れた場合や補修した場合は赤、もっと大規模な補修の場合は地山を削るため、その土色である黄色の土層が堆積するのです。このように、堆積している土層によって、ある程度窯の操業中の時々で何が起こったか推測することもできるのです。とはいえ、同じ色調でも砂質や粘土質の違いがあり、遺物が多く含まれている場合やほとんど含まない場合、複数の色調の土が混じる場合など、細かく分けると同じ層は二つとありません。そのそれぞれで、成り立ちが異なるのです。

 このように、考古学的な発掘調査と言っても、原理的には特別に難しいことをするわけではありません。ならば、手順さえマニュアル化できれば誰でもできそうなもんですが、こういう原理自体は簡単なものほど、調査する人の力量によって、引き出せる情報量が大きく違ってくるのです。たとえば、同じような色調の土が重なっている場合、単純に土層を見ただけでは分けられない場合も珍しくありません。しかし、そこに含まれる遺物の違いを識別できる力があれば、土層の境目も見つけることができるのです。いかに客観的で正確な情報をより多く引き出せるか、これが窯跡に限らず、本来発掘調査に求められるものなのです。(村)

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筍干盛り

 いよいよ有田の町は「陶器市」一色となりました。年に一度の大賑わいです。ここに至るには、明治29年の第一回「有田五二会陶磁器品評会」を始めようとした先達、また大正期に品評会に合わせて廉売市、今の陶器市の形を考えた若者、さらには各時代、時代の関係者の努力の集積が今の陶器市だと思います。改めてその歴史に登場する人々に感謝の思いでいっぱいです。

 ところで、以前、有田はうまいものの店が少ないと言われた時期がありました。その一方で「有田女は料理がうまい」とも。確かに料理自慢の女性が沢山いましたし、今でもそうです。さらに最近は「食と器」というキャッチフレーズも盛んに使われるようになり、旧西有田町の「食」と旧有田町の「器」とが融合し、新生有田町の未来を創っていくものと期待されています。

 この季節、有田では端午の節句、つまり男子の成長を祝う行事食として「筍干(しゅんかん)盛り(も)」というものがあります。筍干皿という専用の皿を使う場合もあったそうですが、大皿の中心にゆでた筍を立て、その周りにゼンマイ、フキ、シイタケ、ニンジンなどを適当に(彩りよく)並べます。筍には茹でた伊勢エビを這わせ、その他に梅や山椒の枝を添えるのが一般的だったそうです。この食材や飾り方には各家庭で異なっていたようですが、男の子の祝い料理ということで、全体が兜をイメージした豪勢な料理だったとのこと。また、周囲の山菜などを並べる際には「兵隊さん、兵隊さん」と言いながら並べていたと話して下さった方もいます。

 陶器市期間中ということもあってか、作る家庭も少なくなってきましたが、この筍干という言葉を国語大辞典で調べてみると次のようにありました。

①干した筍のこと
②筍を切ってアワビ、小鳥、かまぼこなどと色よく煮含めて盛り合わせた普茶料理
③食器の一種

等と説明されています。この中では②が近く、普茶料理から派生したものなのかもしれません。「筍干盛り」という言葉をネット検索すると、有田のあちこちの家庭でもこの豪勢な料理を作っていらっしゃることがわかります。ただ、その起源や謂れなどの詳細はよくわかりません。

 最近では「ごどうふ」が有田を代表する料理(食材)となりましたが、有田の初夏を彩るこの筍干盛りも、これから有田の郷土料理の一つとして未来に伝えていただければと思っています。(尾)

昭和40年代ごろ、NHK佐賀放送局で撮影された「筍干盛り」

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ふるさと再発見講座

 あと3年で有田焼創業400年を迎えます。そこで有田焼の歴史を改めて振り返ろうと、有田町教育委員会生涯学習課と共催で「ふるさと再発見講座」を6月から開講いたします。月1回の講座で3月まで計10回、当館の学芸員らがオムニバス形式でお話をさせていただきます。

 有田焼の調査や研究の最前線の成果を交えながら、できるだけわかりやすいものとしたいと考えています。座学が中心となりますが、国の伝統的建造物群保存地区に指定されている有田内山の町並みや町内に点在する古窯跡などの現地見学も予定しています。

 詳細については、来月から生涯学習課より募集のご案内を行いますので、そちらをご覧ください。定員となり次第、締め切らせて頂きますので、募集が始まりましたら、お早めにお申し込みください。(野)

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「松林靍之助 九州地方陶業見学記」販売開始!!

 4月2日付けのブログでご紹介しました、「松林靍之助 九州地方陶業見学記」の販売を開始しました。

 お値段は3,780円。少々高めのように感じますが、定価は4,725円(税込)。当館では2割引で購入することができます。有田の近代窯業の実態を知る貴重な書籍です。この機会にぜひ、お求め下さい!!(永)

表紙写真

(P38、39 館蔵の石場古写真と泉山磁石場のページ)

 

書 名:松林靍之助 九州地方陶業見学記
サイズ:四六判 346ページ
価 格:4,725円 → 3,780円
編 者:前﨑信也
発行所:株式会社宮帯出版社
発行日:2013年3月25日

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窯跡と発掘調査(1)

 有田町内で発見されている66か所の登り窯跡の中で、これまで発掘調査が実施されているものは50数か所に及びます。66か所の中には、正確な位置が不明なものやすでに壊滅している可能性が高いものも含まれるので、現存することが明白ながら、まったく未調査の窯跡はすでに少数です。ただ、こうした調査も、もちろんすべてが短期間に実施されたわけではありません。最初の調査は昭和33年(1958)に遡り、それから約半世紀をかけて、ようやくほぼ窯跡全体の概要が掴めるようになったのです。

 しかし、これまでの発掘調査のあゆみを振り返ると、年々平均的に進んできたわけではありませんし、発掘調査の目的自体にも時代性が現れます。また、求められる調査の精度や調査方法なども徐々に変化しています。それ以前に、発掘調査と言えば、考古学的手法によって実施されるものだと思われるかもしれませんが、窯跡の場合は一般的な遺跡とは異なり、当初は考古学とはまったく関わりがなかったのです。

 こういう、有田の窯跡の発掘調査の経緯などについて、普段触れられる機会は皆無です。そのため、ちょっとこの場で何度かに分けて、簡単に記しておこうかと思います。まず、今回は手始めに、考古学的な発掘調査をする上で窯跡とはどんな存在なのか、ということについて話してみたいと思います。

 遺跡の発掘調査で発見される資料には、大きく分けて二つあります。一つが“遺構”と呼ばれる窯体跡や建物跡などの不動産資料で、もう一つが“遺物”と呼ばれる陶片や窯道具類など動産資料です。つまり、窯跡の発掘調査で得られる資料には、遺構と遺物の別があります。発掘調査の際には、不動産資料である遺構は持ち帰ることができないため、現地で図や写真など記録の形で残しますが、通常、遺物は持ち帰り洗って土を落としたり、出土地点を記録したりする整理作業を行います。

 この窯跡ですが、遺構という面においては、日本ではかなり特異な部類に属します。というのは、“紙と木の文化”などと称される日本では、たとえば建物跡の場合、掘っ立て柱の穴や礎石などは残るものの、通常、立体的な構築物としては残っていません。ところが、窯跡の場合は硬く焼き締まっているため、海外に多い石製の建物などと同じで、立体的な構築物として遺存しているからです。そのため、発掘調査すると、極めてダイナミックな形で目にすることができます。その上、全体を掘り出した場合などは、細長い窯体が数十メートルも山の斜面に続いているのですから、壮観さも格別です。

 ところで、考古学的な発掘調査では、遺跡に堆積した土層を上から順に一枚一枚区分しながら掘り進めて行くのが基本です。こうした発掘方法の詳細については、次回説明したいと思いますが、窯跡の場合は一般的な遺跡以上にこの基本に忠実な調査が要求され、その上土層の堆積が複雑なので、本当に考古学の発掘調査らしい発掘調査ができる遺跡なのです。

 というのは、窯跡の場合、建物跡などと異なり、生産に関わる遺跡、つまりそれ自体常に活動している遺跡であるため、短期の間にどんどん土層が堆積します。しかも、山の斜面に構築されているため、土層も水平には堆積しておらず、人の行為によって人工的に堆積した層が一般的なので、一つの土層は狭い範囲にしか及んでいません。そのため、かなり丁寧かつ慎重に精査しないと、土層の上下関係を捉えるのが難しいのです。

 このように、窯跡の発掘調査というのは、一般的な平地の遺跡では味わえない、なかなかの魅力があります。歯ごたえのある分、ちょっとクセになる調査と言っていいかもしれません。自分でも、これまで40か所近い有田の窯跡を調査してきましたが、振り返ってみると、あの時ああすれば良かったこうすれば良かったと思う点もたくさんあります。ただ、一度掘った土層は二度と元には戻りません。その時々を、一期一会の機会と捉えて調査に臨む必要があるのです。(村)

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江戸時代の医療環境~水町昌庵先生を中心に

 過日、とあるグループの女性の方々と、旧西有田地区の史跡巡りをしました。明け方まで続いた雷雨に、散策は難しいかなと思っていたのですが、集合するころには青空も見えて、やっぱりこのご夫人方のパワーに雨雲も恐れをなしたのだと思ったところです。
 定番?の山田神社・唐船城から始まり、最後に竜泉寺境内に佇む水町昌庵先生の墓碑をお参りしました。

山田神社で

 さて、この水町昌庵先生、佐賀の中でも今では知っている方が少なくなってきましたが、嘉永2年(1849)11月、10代佐賀藩主・鍋島直正が江戸藩邸で長女の貢姫に種痘を施した際、藩医の伊東玄朴が処置する場面に立ち合っています。当時は死に至る病と恐れられた天然痘(疱瘡)に対する画期的な予防策であったのですが、その効果は未だ実験的な段階でもありました。

 以前、佐賀大学の青木歳幸先生が有田町公民館の講座で紹介されましたが、水町昌庵さんは藩の「医業免札姓名簿」の嘉永4年(1851)亥12月16日の所に、内科と口科(歯科?)の医者として名前が記載されています。

 ちなみに、同じく「医業免札姓名簿」には有田の医師の名前もあり、有田郷大木村の内外科・文禮、稗古場山の内科・祐哲、赤絵町の針科・養朴、岩谷川内山の内外科・省安、泉山の内科・玄仲、新村の外科・曹悦、上幸平山の内科・道雪(以上、嘉永6年)と、この狭い地域に多くの医者が存在したことがわかります。しかも、内科、外科、針科(鍼灸のことでしょうか)など多彩で、これらの医師たちが有田の人々の健康管理につとめていたことだと思います。

 面白いことに、時代は少し遡りますが、文化3,4年ごろ(1806~1897)、当時の皿山代官成富作兵衛が残した日記には「伊万里津は医者が少なく難渋していたが、長崎江戸町の外療医師・楢林泰助という者が伊万里津に百日の滞在申請をし、許可された」ことが記されています。当時の有田と伊万里では医療格差があったのかもしれませんね。 

 話は水町昌庵先生に戻ります。移住の時期もその理由もよくわかりませんが、旧西有田の大木宿で開業し、明治21年(1881)12月23日、76歳で亡くなっています。その墓碑が竜泉寺裏の墓地にあります。
 水町先生と柿右衛門家は縁戚関係があったそうで、以前は酒井田家からお墓の掃除に出かけていたとのことです。                                     (尾)

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古着

 今からかれこれ10数年前、カンボジアの窯跡の発掘調査に春と夏に出かけていました。当時のカンボジアは、内戦が終結してから数年しか経っていない頃で、まだ混乱が続いていました。

 発掘現場は、アンコールワットから東へ向かって1時間ほど車で行ったところにありました。電気もガスも水道もない村でしたが、子供たちは明るく、物珍しそうに発掘調査を見学にきていました。もっとも発掘調査というよりは外国人自体が珍しかったからかもしれません。

 日本ではもう昔ほど洋服の「お下がり」をしなくなっていましたし、当時、私にいたのは姪っ子ばかりで、一人息子の洋服の行く先がないこともあって、カンボジアの子供たちのために息子の古着を発掘調査現場にたくさん持っていったことがあります。単純に子供たちが喜ぶ顔を思い浮かべていたのですが、現実は少し違いました。かなり多めに持っていったのですが、作業に来ていた大人による熾烈な争奪戦が展開されてしまったのです。服を引っ張り合う姿を見ながら、私は茫然とするばかりで、何もなす術がありませんでした。

 古着の数だけ、少しばかり幸せにしたかもしれませんが、もらえなかった人たちにかえって悲しい思いをさせたかもしれないとしばらく考え込みもしました。考えてみると、単純に貧しいということよりも他人と比べてしまうことの方が不幸なのかもしれません。以来、飴玉などたくさん持ち込めて、かつ大人の争いがあまり起きそうにないものにしました。

 ところが数年後になってもやはり私が持って行った洋服を着た子供たちがいました。子供たちは成長していきますので、「お下がり」を繰り返していたのです。役に立てた数は、古着の数だけではなかったようです。お下がりによって、その数は増え続けていたのです。結局、幸せと不幸とどちらが多かったのか、あるいは幸せの数が不幸の数より多ければそれでよいのか、そして、どうすればよかったのか、今もよくわかりません。(野)

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窯道具の種類

 有田でやきものを焼成する際には、当然、窯に詰めて焼成します。その際に用いられる道具類を、一般的に窯道具と呼んでいます。この窯道具、所変われば品変わるではありませんが、生産技術が異なれば用いられる窯も異なるため、生産地によって違いがあります。ただし、肥前に限れば、元となった技術が共通するため、多少は地域色もありますが、大きな違いはありません。
 窯道具の種類は、形状別に細かく分類すると無数にあり、ここで一々説明するのはおよそ不可能です。有田に限っても、特に江戸後期に多彩な種類が用いられており、すべての窯に共通するわけでもありません。ただし、有田では明治頃から、徐々に美濃などの影響を受けて、棚板積みや匣鉢(さやばち)積みが普及します。そのため、江戸時代に用いられた多彩な窯道具もほとんど見られなくなり、ごく一部を除き、すっかりそれらの名称も忘れられてしまいました。

 こうした窯道具類の中で、ほぼ時代を問わず用いられた定番が、“匣鉢(サヤ・ボシ)”、“トチン”、“ハマ”、“チャツ”などで、特にハマやサヤなどは、現代でも盛んに使われています。これらを大別すると、サヤのように製品を中に詰めて焼く器状の道具と、トチンやハマ、チャツなど製品を上に載せて焼く焼台類に分けられます。さらに、トチンやハマは製品を載せる際に、製品の畳付(高台の端部)が窯道具との接点となるのに対して、チャツは高台の中の釉を剥いでそこに当てられます。そのため、チャツを用いる製品は畳付まで施釉しますが、トチンやハマの場合は釉薬による熔着を防ぐため、畳付部分は無釉にします。

トチン

 トチンとハマは、肥前の近世窯業成立期から使用される窯道具で、朝鮮半島の技術に由来します。両端部が広くなった棒状の窯道具がトチンで、円板形の薄い窯道具がハマです。ただし、ハマは1640年代後半以降、逆台形のものも急増します。それとともに、陶器質に加え磁器質のものも多くなりますが、こうした逆台形や磁器質のハマは中国・景徳鎮系の技術の影響によるものです。

 

 

ハマ(逆台形)

ハマ(円板形)

 さらに、ハマには“マンネンバマ”と“トモバマ”の別があり、前者が繰り返し使うのに対して、後者は一回ごとの使い捨てです。使い捨てなんて、何だかもったいない気もしますが、たとえば江戸後期の碗などのように、高台が薄くて比較的高いものなどでは、焼成の際に製品の収縮とともにハマもいっしょに縮まないと、高台の部分から割れてしまいます。そのため、収縮率の同じ製品と同じ磁器質の粘土を用いて使い捨てのハマが作られたのです。
 ところが、このトモバマ、実は発掘調査の時には大変です。何しろ使い捨てなので、大量に出土するどころか、土ではなく、ハマの層となって堆積しています。当然、掘ればジャラ~って感じで崩れるので、まっとうな方法では発掘さえできないのです。

チャツ

 チャツは、今ではほとんど使わない窯道具ですが、1650年代に普及します。17世紀には、主に青磁の大皿の高台内を蛇ノ目状に釉を剥いで、そこにチャツを当てて焼かれました。これは、もともと中国の竜泉窯(浙江省)の青磁皿の焼成方法で、直接竜泉窯の技術が導入されたとは思えませんが、中国系の技術には間違いありません。そして18世紀中頃以降は、染付製品でもよく使われました。

 

 

 

 

 

匣鉢 内部にハマが置かれている状況

 一方、サヤは焼台類とは異なり、磁器の成立とともに出現する窯道具です。磁器専用の窯道具で、陶器に用いることはありませんでした。サヤ自体は朝鮮半島でも用いられますが、高級品を焼くための窯道具で、官窯クラスの一部の窯に限られ、朝鮮半島に由来する陶器の技術には含まれていませんでした。そのため、実際に形状や成形方法なども朝鮮半島のものとは異なります。ただし、中国のサヤとも異なるため、有田で独自に考案されたものかもしれません。ちなみに、有田のサヤは朝鮮半島と同様に高級品生産用の窯道具であるため、積み重ねて使用されません。しかし、その後1640年代後半には、数段積み重ねるサヤが出現します。これは、量産目的にサヤを用いる、中国・景徳鎮系の技術の影響によるものです。

 

 

 

 このように、製品以外にも、有田の技術の中には、朝鮮半島や中国のさまざまな技術が取り入れられています。しかし、こうした消費者の目に触れることのない現場の技術は、よほどの大きな転機がないと変化しません。たとえ新しい方法が現代的な目からは効率的に思えても、それまでに培ってきた経験と実績を、簡単に放棄することは難しいからです。    (村)

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池田コレクション第4弾の受入

 過日、鳥取県米子市在住の池田兆一様ご夫妻が来館。これまでに奥様の実家である鳥取の大庄屋・近藤家の分家に残っていた130点余の焼き物と付随する古文書4点をご寄贈いただいていますが、さらに今回もまた、わざわざ米子から車を運転してご来館され、ご寄贈いただきました。(季刊皿山No,92参照)

 池田様ご夫妻と有田町の関わりは一昨年、平成23年の1月にいただいた一本のお電話から始まりました。
 それは「自宅にある古文書に有田焼のことを書いてあるようだが、読んでほしい」ということでした。複写した資料が送られてきたので読んでみたところ、今から170年ほど前の天保時代の文書で、その焼き物を焼いたのが有田の窯焼き・諸隈喜右衛門であることや、近藤家から注文した焼き物の文様や価格、さらには伊万里津から米子までの運送費用等が明記されていて、飛び上るほどの驚きでした。何度かお電話でやり取りをしていく中で、「今度そちらに伺います」と。そして3月に当時の木箱に入ったままの焼き物などを持参していただき、ひとまず調査のためにお預かりすることにしました。
 そこで、古文書と照らし合わせていくと、例えば「一、尺五寸大鉢 二枚 右同段 御紋角切方之内釼花菱 代金二両」とあって、製品と記録が一致。ほかにも、同じ家紋入りのお茶碗や刺身皿、透かし入りの箸立てなどが注文されたことがわかりました。この諸隈喜右衛門よりの「送り状」の合計金額は金廿両三部三朱と銀弐匁で、途中で2回にわたって金弐部と金五両が手付け金として送金されているようです。

 実は窯焼き・諸隈喜右衛門が書いた手紙も残っていて、そこには再三焼き直ししたために納期が延びてしまったことに対しての詫び言と、その詫びを申し上げるためでしょうか、鳥取まで出向こうとしていた様子が伺えます。
 さらに、お詫びの印に、尺5部の中鉢を一枚差し上げますと申し出ていています。ただ、その前にちゃっかりと残金も送ってくれるよう頼んでもいます。こういう手紙を読むと、人間が考える事、行動などは今も昔も大して変わりはないなあと思ってしまいます。

 この諸隈喜右衛門なる窯焼きについて、色々と探しましたが、「有田町史 陶業編Ⅰ」にありました。文化5年(1810)の西登18番の沽券状のやり取りの中で、存人(これがよくわかりませんが保証人という意味でしょうか)として名前があります。今の所、まだ捜査中というところです。どなたかご存知の方がいらっしゃったらご教示ください。               (尾)

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もう一つの東西の出会い

 メキシコの首都メキシコシティから2時間ほど車で走ったところにプエブラという街があります。

プエブラの町並み

 有田と同じくやきものの町です。街中の陶器店や露店には、明るいカラフルな陶器が並びます。

店先に並ぶプエブラ焼

 そもそもこのプエブラの製陶技術がどこから来たものかと言えば、その昔ヨーロッパから伝わった技術です。それではそのヨーロッパの技術がどこから来たかと言えば、さらに西の西アジアのイスラーム陶器の技術が伝わったものです。

 その歴史をひも解きますと、8世紀以降、イスラーム勢力がヨーロッパに進出した際に、イスラーム陶器の技術がヨーロッパに伝わりました。イベリア半島では長らくイスラーム王国が続き、現在、世界遺産となっているスペインのアルハンブラ宮殿などももともとはイスラーム王国の宮殿でした。当時の先進的な知識や技術をもったイスラーム教徒は多くの文化をヨーロッパに伝えました。製陶技術もその一つでした。その結果、ヨーロッパではマヨリカ陶器が生まれ、やがてデルフト焼などのファイアンス陶器を生み出します。
 続いて15~16世紀の大航海時代、コロンブスによるアメリカ大陸「発見」以後、スペイン人は大西洋を渡ってアメリカ大陸に進出していきました。そして、ヨーロッパの製陶技術をアメリカ大陸に伝えます。そうして生まれた焼き物がプエブラ焼です。つまり、プエブラ焼は西アジアから北アフリカ、ヨーロッパ、そして、大西洋を渡ってアメリカへ、西へ西へと伝わり、たどり着いた技術でできた焼き物です。

 一方、プエブラ焼の中でもひときわ目をひくのが白地に青で文様を描いた器です。16世紀以降、フィリピンのマニラとメキシコのアカプルコを往復するガレオン船によって、東洋の染付は大西洋とは反対側の太平洋を越えて、アメリカに渡ってきました。海を越えてもたらされた白地の青い文様の器をプエブラの陶工たちは盛んに模倣し、それを今に伝えています。もちろん、その東洋の染付には有田焼も含まれています。

 

メキシコシティ出土の有田焼(17世紀後半)

こうしてプエブラ焼は西の技術と東の意匠が融合した器を生み出しました。

 東西の文化交流と言えば、その主な舞台は陸のシルクロードであれば中央アジア、海のシルクロードであればインド洋世界でした。東アジアと西アジア、東洋と西洋がいつも向き合うような形で交流を重ねてきました。
 それらとは逆の方向、すなわち、東と西がそれぞれ背を向けるように文化を伝えながら、今度は地球の反対側のアメリカ大陸で東と西がまた出会ったというわけです。なかなか壮大な文化交流ではないでしょうか。そして、この交流の最後の一役を有田焼も担っていたと思うと嬉しくなります。

 大航海時代を経て、地球の果てがなくなり、名実ともに地球は「丸く」なりました。当時のメキシコを描写した詩には、次のように詠まれています。

「メキシコでスペインと中国が、イタリアと日本が一つになる。
やがて貿易と政治によって一つの世界になる。」

 大西洋と太平洋、二つの大洋を渡ってきた文化がメキシコで一つに融合する様子が謳われています。今、流行りのグローバル化の波を詠んだような詩ではありますが、西と東が融合したプエブラ焼の器もまたその象徴と言えます。(野)

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登り窯の構造

 肥前において、近世に用いられた本焼き用の窯は、すべて登り窯でした。焼成室ごとに所有者の異なる地区の共同窯で、一つの業者が1室から数室を所有していました。規模の大きい窯なので頻繁に焼成していたわけではなく、有田の場合江戸時代の個々の窯の記録はありませんが、18世紀後半の全窯場の年間の焼成回数と考えられる記録があり、それをその頃の窯場の数で割るとおおむね年間5、6回になります。これは波佐見の記録でも、17世紀末に9回、窯が大型化した19世紀前半では窯場により6回や3回などとあるため、有田でも似た状況であったものと思われます。有田には、「窯焼きは3代続かない」とか「ふがま(焼成を失敗すること)3回で窯焼きは潰れる」などの言葉もありますが、たしかに年に数回の焼成でふがまを出してしまうと、家が傾くようなこともあったに違いありません。

 この登り窯ですが、現代の窯のように工房内に設置されるものではなく、必ず山の斜面に築かれています。通常は、窯の片側が谷に面した場所が選ばれ、焼成の際に失敗した製品は、そのまま谷に捨てられます。この失敗品の堆積した谷を、“物原”と言います。

 登り窯の最下室は、“胴木間”と呼ばれます。この部屋は、窯を乾燥させたり、窯全体をゆっくりと温度上昇させるための燃焼室で、下端部に焚き口が設けられています。最初はここで燃料の薪が燃やされますが、通常は、製品は詰めません。焚き口は、江戸時代には一つでしたが、明治時代になると複数横に並べたものも見られるようになります。

 この胴木間より上の部屋が、製品を焼く焼成室として使われます。各焼成室には物原の位置する谷に接する片側に、出入り口(木口)が設けられます。ここから、製品の出し入れをしますが、焼成に失敗した製品は、そのまま隣接する谷に投棄するのです。また、この出入り口は、焼成の際には薪の投入口としても使用されます。“トンバイ”(耐火レンガ)一個分の穴を残して、トンバイや粘土で密閉し、その穴が薪の投入口となるのです。

 この各焼成室で窯を焚く工程には、1)ねらし焚き(あぶり焚き)、2)攻め焚き、3)あげ火があります。磁器は弱還元焰焼成されますが、これは投入する薪の量や頻度で調整します。たくさんの薪を一度に投入するほど窯内の酸素が欠乏し、還元状態になるのです。また、焼成は各部屋を同時に行うわけではなく、下の部屋から順に一部屋ずつ焚かれます。そのため、後に焚く上方の焼成室ほど温度上昇が緩やかで、たとえば、厚みのある大型製品を焼く時などに適しています。

 各焼成室の内部に目を移してみると、床面は、下室側に“火床(ひどこ)”が設けられ、上室側には“砂床(すなどこ)”があります。また、その火床と砂床の境には、両床を仕切るためにカマボコ状の粘土を連ねた“火床境(ひどこざかい)”が設けられます。火床は、その名のとおり、薪を投入して燃やす施設で、側面の出入り口の幅で造られます。その上室側で、焼成室の大半を占めるのが、製品を焼いた砂床です。床面に砂が敷かれているのがその名の由来ですが、これは、焼成時に窯道具などを並べた際に、熔融して床面とくっついてしまわないようにするためです。

 その他、焼成室の中で床面以外に設けられる施設としては、色見穴があります。当時は、現代のように温度計やゼーゲルコーンなど、温度を知るための道具がなかったため、色見穴から炎の色で温度を確認したり、製品の焼成具合を確かめたのです。

 また、各焼成室の奥壁には、“温座の巣(おんざのす)”と呼ばれる通焔孔が、横一列に並ぶように設けられていました。これは、立てた状態でほぼ等間隔に並べたトンバイの上に、横にしたトンバイを次々と渡して、方形の穴を造りだしたものです。焼成室内の熱や炎はこの温座の巣を通って、上の部屋へと伝わるわけです。

 こうして、温座の巣を通じて次々と上室へと伝わる熱や炎ですが、最後の窯尻ではどうなるのでしょうか。現代の登り窯の多くでは、窯尻の上部にさらに別途煙突が建てられ、そこに抜ける構造になっています。ところが、江戸時代の登り窯には煙突がありません。最上室も下室と同様に、奥壁の温座の巣からそのまま外界に熱や炎が排出されるのです。これは、現在の登り窯が2、3室と小規模なものが多いため、煙突を建てないとうまく熱や炎が上に引いてくれないからで、大規模で細長い江戸時代の窯は、窯自体が煙突の役割を果たすため必要なかったのです。

 こうした登り窯は、日本においては、肥前で誕生し普及したもので、従来の国内の窯と比べ熱効率も焼成できる量も格段に優れていました。そのため、その後、直接的、間接的に技術が伝播し、全国へと普及したものなのです。(村)

広瀬向窯跡
写真中央部を右下から左上方向に3号窯が登っており、その廃窯直後に築かれた2号窯が、隣接して写真奧側に並行して登っている。そのため、2号窯の焼成失敗品が3号窯の上に厚く堆積している。

登り窯の各部の名称
大橋康二『肥前陶磁』考古学ライブラリー55 ニュー・サイエンス社 1989より転載

『染付有田皿山職人尽し絵図大皿』(有田陶磁美術館蔵)に描かれた
登り窯の攻め焚き風景

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道路拡張

 4月も第二週目となりました。桜もあっという間に散ってしまい、若葉が美しい季節となりましたが、このころになると、有田の周囲の山々には薄い紫色した小さな花が目に付くようになります。植物名は「サイゴクミツバツツジ」(HPの表紙にアップした花です)で、有田では「ヤマツツジ」とか「インツツジ」などと呼ばれています。この花が山肌に顔を見せるようになると、「陶器市ももうすぐだなあ」と思います。個人的には「陶器市を告げる花」でもあると思っています。この花は岩肌を好むようで、きれいだからといって家の庭に移植しても、なかなか育たないのだそうです。

 例年、陶器市では旧道沿いに沢山の商店が並びますが、この道路の幅は昭和7年までに今の道幅に拡幅されたもので、以前はその半分でした。町中を通る「国道33号」の拡幅計画は、有田町役場日誌を見ると大正14年ごろから動きがあったようです。聞き取りだったか、何かの資料だったかは記憶が定かではないのですが、ある時、国の偉い方が有田を訪問するというので、偉い方を乗せた車が武雄方面から有田に入って来るのに合わせて町のお歴々は岩谷川内方面から車で東上し、町中で出会ってわざと離合できないように仕向けて道の拡幅の必要性を訴えたという話があったように覚えています(うーん、最近は段々と物忘れが…)。

 このことは、有田町役場日誌の大正14年8月26日付けにある事からも十分推測できます。それは当時の町長や助役、道路拡張委員のメンバーは若槻内務大臣が九州を訪れた際、それを好機として懇請を試みたものの、大臣一行は汽車で長崎へ向うという当初の計画が変更できず、上有田駅を通過する際に挨拶し記念品を贈ったことが記されています。さらには佐世保鎮守府司令長官や久留米師団長を訪問していますが、これもこの国道が軍事面でも重要な道路であることを強調したのでしょう。

 涙ぐましいまでの努力の結果、工事は昭和2年から実測に着工。ある家は軒先を切り、またある家は曳き家をしたりと、町民の多大な協力を得て昭和7年4月10日、中の原の細川文次郎宅前で国道拡張竣工式が挙行され、午後1時からは物産陳列館(現在の有田商工会議所の場所にあった)で宴会があり、各区から手踊りが出て盛会を極めたと「松浦陶時報」は記しています。実はこの時のものと思われる映像が当館に残っています。音声がないのが残念ですが、各区の人々が代わる代わる、陳列館前で踊りを披露していて、人々の喜びが伝わってくるようです。この年は5月1日から陶磁器品評会並びに蔵ざらえが始まっていますが、道路拡張のお陰で、前日までは雨降りだったものの、当日は晴れて「交通も楽々」であったとあります。

 さて、今年の陶器市も天候に恵まれて、多くの方に来町いただければと思っています。(尾)

札の辻あたりの拡幅工事現場。後ろの建物は当時の有田銀行(現在の佐賀銀行)。左側の陶山神社の石柱は、線路下に移設され現存する。 手塚家所蔵

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子供の質問

 子供の頃、全国どこにでもある月極駐車場の看板を見て、全国チェーンと思った人もいらっしゃると思います。私もそうでした。同じく子供の頃、私はガソリンスタンドを油田だと思っていました。都合よく道路の脇で油田を掘り当てるものだと感心していたものです。閉店したガソリンスタンドを見ると、石油が出なくなったのかと大人の事情も知らずに勝手に思っていました。

 子供は大人から見れば、突拍子もないことを思いつきますが、中には核心をついた発想も時々見られます。当館に寄せられる質問の中にもそうしたものが見られます。

 「今まで何個ぐらい有田焼は作られましたか?」、「昔、焼き物が出来上がった時、どんな気持ちだったのですか?」など、なかなか答えにくい質問が多いです。どちらもとても大事な問題で知りたいところですが、大人の場合、最初からわからないものとして、そうした質問を思いつきもしません(おそらく無意識のうちに頭の中でそのように処理しているのでしょう。)。

 最近、私自身は子供たちと接触する機会が減りましたが、昨年、歴史の川ざらい「ベンジャラを探そう」というイベントで触れ合うことができました。有田の川の中に残る有田焼の陶片を探して、子供たちに有田の歴史を感じてもらおうという趣旨でしたが、日頃、大人たちから受ける質問とは全く異なる種類の質問を受けることはとても新鮮でした。

 夏の話をするにはまだ早いですが、今年も歴史の川ざらい「ベンジャラを探そう」を開催する予定です。これからの有田を担う子供たちの手強い質問をお待ちいいたしております。(野)

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展示ガイドブック発行、販売開始!!

 このほど、「有田町歴史民俗資料館東館・有田焼参考館」の展示ガイドブックがようやく完成いたしました。以前より、来館者から要望の多かったもので、特に2011年12月に参考館の展示替えを行ってから、更に展示ガイドブックを希望する声が増加し、出版計画が持ち上がりました。手軽に手に取ることができ、内容は充実したものを作ろう!と決定しました。

 以前のブログでもご紹介しましたが、資料館の展示キャプション自体も変更する予定でしたので、展示ガイドブックを作成する前に、まずキャプションの変更を終了しなければならず、その新しいキャプションを作るのは、少々時間がかかり、結果ガイドブックの誕生を心待ちにしていた多くの皆様をさらにお待たせすることになってしまい、誠に申し訳ありませんでした。
 ガイドブック作成中もたくさんの方から「展示ガイドみたいなものはないですか?」と問い合わせがあり、そのたびに「目下製作中で…」と答えると、「じゃあ、楽しみに待っています!」とプレッシャー…ではなく期待をかけて下さり、そのおかげで何とか発行することができた次第です。

 さて、その展示ガイドブックですが、サイズはA5版、フルカラー、36頁で、価格は何と

1冊 300円!!

 非常にお求めやすい値段になっています!! 歴史民俗資料館の展示品を網羅し、写真や図版もふんだんに使用したものになっており、これで300円は安い!と自負しております。観覧する際の手引に、旅の記念に、有田皿山の歴史の勉強にご使用ください。
※一部の資料については、展示していない場合や、展示しているけれどガイドブックには記載していない場合があります。

展示ガイドブック 中身の紹介

 ようやく完成した展示ガイドブックですが、資料館開館35年にして初めて作成したことに気づき、ちょっと驚いています。まず、今まで1度も作っていなかったということと、さらには今年2013年の10月で、資料館が開館35年を迎えるということです。
 ついこの間、開館30年企画展を行ったばかりなのに…時間のたつのは本当に早いと感じます。(永)

 

名 称:有田町歴史民俗資料館東館・有田焼参考館展示ガイドブック
発 行:有田町教育委員会
サイズ:A5版、フルカラー、36頁
価 格:300円

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新年度、そして「松林靍之助 九州地方陶業見学記」発刊!

 新年度・平成25年度が始まりました。当課も多少動きがありました。3月29日には有田町役場で退任式があり、管理職として先鞭をつけていただいていた先輩諸姉の皆さまがどっとお辞めになりました。取り残されてしまったような、一抹の寂しさと不安は隠しようもありません。でも、落ち込んでばかりでもいられません。これからは同僚と共に有田町の文化財保護、有田焼・有田町の歴史の解明に力を尽していきたいと思いますので、皆さまのご指導・ご鞭撻をよろしくお願いいたします。

 さて、このほど京都・宮帯出版社より上記の出版物が発行されました。これは今から100年ほど前の大正8年(1919)に、京都市立陶磁器試験場付属伝習所特別科で学んでいた松林靍之助(1894~1932)さんが、約1カ月をかけて有田をはじめ九州地方の窯業地の現状を調査し、刻銘に記録を残していたのですが、それが靍之助の実家である京都・宇治の朝日焼の窯元に保管されていました。
 今回、それを立命館大学の前崎信也氏が翻刻し、解題を加えたものです。今回、翻刻されたものは和紙にカーボン紙を挟んで記録されていたそうで、厳密に言えば原本は恐らく京都市立陶磁器試験場に提出されたと思われますが、この施設がその後、大正8年に農商務省管轄の国立陶磁器試験所となり、さらに昭和27年には名古屋へ移転。平成13年の機構改革で産業技術総合研究所(略して産総研)と移行する中で、本来あったであろう原本の行方が分からなくなったのではないかという推測を編者の前崎氏はされています。

 靍之助さんはほぼ一ヶ月にわたって博多から有田、波佐見、三川内、さらに熊本・天草、鹿児島までを踏査しています。交通機関が発達している現在ですら、これらを訪問するだけでも大変ですが、当時稼働していた登り窯などを実測し、焚き方や燃焼時間、原料などを聞き取り調査しています。
 有田では泉山はもちろん、岩尾氏、山口徳一氏、辻精磁社、深川製磁、香蘭社などを訪ね、今はない雪竹氏、城島氏、帝国窯業なども訪問しています。中には、窯主の容貌から性格等までも刻銘に分析し記録しています。この点に関して資料を保存しておられた松林家では、多くの窯元や個人が実名で掲載されることを懸念され、当初出版をためらっていらっしゃったとのことですが、貴重な資料を世に出したいという前崎先生の熱意が今回の出版につながったと思います。

 有田、有田焼の近代史の調査は未だ分からない部分が多々あります。例えば、明治後半に有田の窯元の多くが、原料を泉山の陶石から天草の陶石へ移行していく中で、その理由は可塑性や成分の問題にあったと思っていましたが、この本の中で松林さんは「価格に於て非常に安価なるにより泉山石を使用し居れども」と、当時は天草よりも泉山の方が安価であったと記しています。
 天草の方が安価であったために泉山から天草に移行していったと理解していましたが、必ずしもそうではなかったことも今回の資料で分かった点です。

 このこと一つとっても、今回の出版物は大正期の有田地方の窯業史の一端がわかる、貴重な出版物となっています。当初予定されていた価格よりも、写真や注釈などが増えた分、少々高くはなっていますが、是非、お求めいただきご一読くださいますようご案内いたします。

なお、当館でも今後販売を取り扱う予定ですので、購入ご希望の方はご一報ください。尾)

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空港

 ブログが始まって5か月ほどとなりました。時々、都合よく休みになったりしますので(インフルエンザで病休の時もありました。)、毎週書いているわけではありませんが、もうだいぶ書くネタがなくなってきました。でも、なんとか絞り出していこうと思います。

 今日は飛行機のトラブルについてです(トラブルというより一つは私のミスですが)。

 一時期、毎週のように週末に飛行機に乗っていまして、行き先と時間帯によって、長崎空港を使ったり、福岡空港を使ったりしていました。早めの予約が安いので、日程が決まっている場合は、かなり早い時期に予約を入れていました。ある時、長崎空港から東京だったでしょうか、出かける用事があり、自宅から自分の車で運転して空港に向かいました。いつも空港近くの送迎付きの駐車場にお世話になるのですが、帰りの送迎のため、帰りの便を聞かれます。便名までは覚えていなかったので、航空会社と到着予定時間を伝えるとそういう便はないとおっしゃるではありませんか。そんなはずはないとチケットを見てみますと帰りは長崎着ではなく、福岡着の便を予約していたことがわかりました。そこでようやく行きは家族に空港まで送ってもらうつもりでいたことを思い出しました。
 結局、東京から福岡空港経由で自宅まで戻った後、車を回収しに再び長崎空港まで行く羽目になりました。

 これにはまだ続きがあります。その翌週は山形の飛島という離島に出かけたのですが、山形から長崎への直行便はなく、羽田空港経由で長崎に戻る予定でした。しかし、使用機の遅れで羽田発長崎行の最終便には間に合わないかもしれないと空港で言われ、そして、福岡行きであれば間に合うかもしれないと便の変更を提案されました。気の毒そうな顔をしている空港アテンダントに、「先週も長崎から乗って、福岡に着いたんですよ」と愚痴をこぼしつつ(もちろん、なぜそうなったか理由は言いませんでしたが・・)、福岡便に変更しました。

 結局、2週続けて、長崎空港まで車を回収しに行くこととなりました。(野)

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珍しい桜

 資料館の桜情報をお伝えしようと思っていたのですが、いままさに満開、もう散りゆくばかり…という状況になりましたので、別の桜情報をお伝えしたいと思います。

 4年ほど前「曲川神社に珍しい緑色の桜がある」という話を耳にしました。詳しく話を伺うと、もしかして「御衣黄桜(ぎょいこうざくら)」ではないかと思いました。
 実は私、丁度そのころに緑の花を咲かせる「御衣黄桜」のことを知り、とても珍しい品種であること、全国100ヶ所ほどで確認されていること、佐賀県では唯一、嬉野市吉田の横竹ダムに300本ほど植樹されていることなどを知り、春になったら嬉野に御衣黄桜を見に行こう!!と計画していたのでした。緑色めいた桜には他にも「鬱金桜(うこんざくら)」がありますが、どちらかというとこれは黄色がかった色です。最初曲川神社の話を聞いた時は、この鬱金桜だろうか?とも思ったのですが、私に話をしてくれた方も桜の種類はご存じではありませんでした。
 ということで、御衣黄桜の時期は八重桜と同じくらいなので、日程を決め、友人と2人で、まず嬉野に向かい、その後曲川神社に寄ろうと計画しました。

 さて当日、現地に着くと、桜らしい木はすべて葉桜で、「どこだろう」と何度も同じ場所を探しました。緑色の花だから分かりにくいのかも…と、桜1本1本をじっくり見ていって、はじめてこの場所にある葉桜だと思っていた木がすべて、緑色の花をつけていることに気が付きました。

2010年4月11日撮影 嬉野市吉田 横竹ダム

 最初の感想は、とにかく「地味~」「八重桜が派手だから、反動でさらに地味」と、二人で地味地味言い合っていましたが、よく見ると、名前の通り品のある佇まいで、夢中になって写真を撮ったり、じっくりと花見を楽しんだりしました。
 それから曲川神社に向かうと、みごとな八重桜が境内に咲いていましたが、私の目的は1本だけある(推定)御衣黄桜。参道を上がっていくと、見つけました。確かに1本だけ、緑色の花をつけている桜がありました。さっきまで見てきた、嬉野の花と全く同じもので、これは御衣黄桜であると思いました。1本だけしかないためか、はたしてひいき目か?曲川神社の方が綺麗だと感じました。
 この桜がなぜ1本だけ曲川神社に植樹されているのか不明です。どなたかご存知の方はぜひ情報を下さい(万が一御衣黄桜でなかった場合も教えて下さい)。

 そしておそらく今年も品のある花を咲かせていることと思いますので、興味のある方は是非見に行って下さい。私もおととしまでは見に行ったのですが、去年は行けなかったので、今年こそ、写真を撮りに行きたいと思っています。実はこのブログに載せるため写真を探していたのですが、一枚しか見つからなかったので…。

 ちなみに御衣黄桜の緑色は葉緑体で、花の咲き初めは緑が強く、段々花の中心部から赤みが増していくそうです。花の名前の由来は、貴族の衣服の色からとられたそうです。(永)

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登り窯の名称(後編)

 前回は、現在の窯跡の名称について、成立の経緯などいくつか紹介しました。引き続き、今回は、登り窯の操業当時の名称について触れてみたいと思います。とは言え、そんなに古い時代のことは分かりません。『皿山代官旧記覚書』などでは、個別の窯場については18世紀の記述も見られます。しかし、有田全体の窯場の名称が分かるのは、『皿山代官旧記覚書』の文化十一年(1814)の日記が最初です。
 これによると、操業当時の窯の名称は、地区の共同窯であるため、多くは「地区名+登」の組み合わせで呼ばれています。つまり、下白川窯跡の場合であれば“白川登”、窯の谷窯跡の場合は“応法登”という具合です。この日記では省略されていますが、窯場のある地域であることを示す“山”の名称を加え、“白川山登”や“応法山登”と呼ぶこともあります。

 このように地区に共同窯が一つの場合は単純なのですが、中には二つの登り窯が併存する場合もあります。たとえば、広瀬山の広瀬向窯跡と茂右衛門窯跡、黒牟田山の多々良の元窯跡と黒牟田新窯跡、泉山の年木谷3号窯跡と年木谷1号窯跡などです。こうした山の場合は、名称設定にはいくつかのパターンが見られます。
 最も一般的なのは、17世紀から続く地域の核となる窯場があり、18世紀後半以降新たに窯場が追加されるタイプです。この場合、旧来の窯場を“本登”、新設の窯場を“新登”として区別しています。つまり、広瀬山の場合だと、広瀬向窯跡が“広瀬山本登”、茂右衛門窯跡が“広瀬山新登”となります。黒牟田山や泉山なども同様です。
 ところが、そういう明確な新旧関係では分けられない場合もあります。そういう時には、かなり柔軟(?)に名称設定されているようです。たとえば、上幸平山から大樽山には、隣接して大樽窯跡、西登窯跡、前登窯跡などが築かれています。この場合は名称からも分かるように“西登”や“前登”などのように、相対的な位置を名称としています。ちなみに大樽窯跡は、当時は“東登”と呼ばれていました。

 さらに、本幸平山の場合は、ちょっと意味のよく分からない名称設定です。谷窯跡と白焼窯跡が同じ丘陵上に隣接していますが、それぞれ“谷登”、“白焼登”と称されています。“谷登”の方は、同じ丘陵の中央部には白焼窯跡が登っており、たしかに、谷窯跡はその西側の下がった谷側に登っているため、案外そのあたりが名称の由来かもしれません。一方、“白焼登”の“白焼”とは素焼きの意味だと思いますが、なぜそう呼ばれたのかは分かりません。素焼きが焼かれていたのでと言いたいところですが、発掘調査でちゃんと通常の製品が焼かれていたことが判明しています。

 このように、現在の名称も操業当時の名称も、緩やかな決まりはあるものの、全体的に統一されたルールで付されているわけではないのです。(村)

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有田のことば

 日本各地には多くの方言があります。有田も然り。その中で、お産婆さんのトヨさんの日記に、たびたび「オハギヒカリ」とか、「別れヒカリ」「男女ヒカリ」などの言葉が出てきて、どういう意味なのかわからず、町の古老にも聞いたりしましたが「聞いたことがない」という返事でした。文章の前後から何となく感じられたのですが、改めて有田町史別編の『有田の方言』を探すと、ありました!そこには「ひかい」とあって「何となく気の合った人たちがふと思い立って催す小宴。陶工たちの楽しみである。誰言うとなく今夜ひかろーかといって宴会になる」とあります。『日本国語大辞典』にも福岡県朝倉や佐賀県藤津郡の方言として「金銭または物を出し合って飲食すること」とあります。近所付き合いが濃厚だったころ、また今のように余暇の過ごし方がバラエティーに富んでいなかった時代は、この「ひかり・ひかい」が絶好のストレス発散の機会になったのだと思われます。

 また、以前ある古老から「あそこは“そろそろ貧乏”にならいた(なった)」という言葉を聞いたことがあります。思わず、それってどういう意味ですか?と尋ねた所、いつの間にか、わからない(認識しない)うちに貧乏になっていくことだと。これもまた『有田の方言』に記録されていました。

 最近、「どーぶりー」という言葉を有田のあるブログで拝見しました。そこには「胴振り」とあり、『有田の方言』には「仕事場や仲間中で旅行に行ったり宴会をした後で、その勘定を兼ねて仕舞い祝いをすること」とあります。さらに『日本国語大辞典』には「どうぶるい:【方言】伊勢参りなどの旅行から帰った祝いに酒を飲んで別れること」とあって、滋賀県や山口県などの言葉と表現されています。恐らく、お伊勢参りに関する言葉として各地に残っていたものが、有田では現在も若い人たちの中で使われているのではないかと思います。地方の言葉が歴史の中に息づいているようで、ちょっと嬉しくなってしまいました。                  (尾)

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フランクフルトのチビッ子たち

 フランクフルトで偶然、伯父とすれ違ったことは以前、書きましたが、この町で初めてスリ集団に遭いました。と言ってもチビッ子たちです。

 朝のフランクフルトの駅前で南廻りの長時間フライトと時差ぼけで、ぼぉーとしていると、5~6人の子供たちが寄ってくるというか、たかってきました。一人が新聞を広げて私の体に押し当ててきます。そして、それに気をとられているうちに他の子たちが左右から手を伸ばしてズボンのポケットから財布をすろうというものです。
 何かズボンのポケットを触られた感じを覚えて、慌ててズボンのポケットをおさえました。確かにまだ財布はありました。よし大丈夫と思って、子供たちを追っ払ったのですが、改めて見てみると、中身が抜かれた後でした。触られたと思ったのは、財布をポケットに戻した時だったのです。

 ポケットに入れている財布にはたいして現金は入れていなかったのですが、ヨーロッパに着いたその日の朝に、掏られたことが間抜けで情けなく、私の張り込みが始まりました。彼らにとって朝一番の「仕事」だったので、きっとまた仕事にとりかかると思ったからです。あれぐらいの少額な稼ぎで1日の仕事が終わるとも思えません。そこで駅の正面から少し離れたところから、ずっと様子を伺っていました。別に急ぐ旅ではないので、2~3日張り込みをしてもかまわない、そんな気持ちでした。
 そして、とうとう現れました。しかし、ここで慌ててはいけません。追いかけると逃げてしまいます。そこで不思議な「東洋の微笑み」を浮かべながら、子供たちにじりじりと近づきました。私の意図がわからない子供たちも笑顔です。そして、十分近づいたところで、一人をとっつかまえました。そして、ずるずると駅警察の方にひきずっていこうとしたところで、「親玉」が現れました。鵜飼の鵜匠と言ったところでしょうか。子供たちがすってきたお金をみんな巻き上げている悪い大人です。やせぎすの子供たちを従えている丸々と肥えたおばさんでした(絵に描いたような悪者です)。

 なんとなく子供たちがかわいそうになり、金も返してくれたので、「釈放」しました。これがフランクフルトの最初の思い出です。ローマとモスクワの両替詐欺事件もありますが、それはまたいずれかの折に(野)。

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 いつのまにか、資料館周辺の桜が咲いていました。気づいたのが18日月曜日。この日は朝から雨が酷く、傘をさしているにもかかわらず、ずぶ濡れになっての出勤でした。それから3日間で、もう見ごろになっています。今週末が山場でしょうか。

 さらに私の好きな「ユキヤナギ」の花も咲いていました。私の誕生花の一つです。気候も日に日に暖かくなり、春めいてきました。週末は衣替えをしなければいけませんね。 

 桜の様子次第ですが、来週も資料館付近の桜情報をお伝えしたいと思います。もう散っているかも知れませんが…?(永)

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有田さくら会

 有田にはそれぞれの業界の組合や団体があります。その中で、業界を主体としたものとはちょっと趣きが異なる団体が「有田さくら会」(会長:蒲地桃子氏)ではないでしょうか。現在、有田町の「町花」も“さくら”ですが、「有田さくら会」は故蒲原権さん(蒲原コレクションの寄贈者)を中心として今から36年前、昭和52年に発足しています。「私は生まれていなかった!」とは申しませんが、有田に職を得る1年前になります。母体となる「日本さくらの会」は昭和39年、東京オリンピック開催の年に日本の花「さくら」の愛護、保存、育成、普及等を目的に、初代会長船田 中 衆議院議長を中心として超党派の国会議員有志により設立されました。

 さくらつながりの話になりますが、昨年の企画展でも紹介したアメリカの作家で地理学者であり、写真家でもあったエリザ・R・シドモアという女性がいます。彼女は明治18年から度々日本を訪れていました。その期間中、明治30年ごろに有田を訪れ、泉山や窯場など見学しています。その折の記録は「日本人力車・旅情」というものにまとめられ、1898年(明治31年)1月22日付けのハーバーズウィークリというニューヨークで発行された新聞の記事として残っていることを米国在住のコレクター・近藤裕美さんから紹介していただきました。英語に弱いこともあって、それを有田町の国際交流員であるハナさん(ナンカ、さくら→桃子さん→ハナさんと花盛り!)に翻訳していただきました。
 記事には武雄温泉のこともありますので、恐らく、武雄から“皿山越横街道”を通って有田入りしたものと思われます。泉山の磁石場の風景から唐臼の使い方や有田焼を作る過程、各窯場で働く子どもたちから大人まで、当時の有田を女性の視線で事細やかに観察し記録しています。この中にある風景は写真家でもあったシドモアが撮影したものと思われますが、これらの記録は「日本奥地紀行」を著したイザベラ・バードの、まさに西日本版ともいえるもので、明治30年代の有田皿山の風景を今に伝える貴重な資料です。
 明治45(1912)年、東京市からポトマック河畔にさくらの苗木が贈られ、昨年は100年という記念すべき年でもありました。この件に関しても、世界的化学者で実業家の高峰譲吉やシドモアの尽力があったといわれます。彼女は武士道に基づく文化と、さくらを愛でる日本人の精神に深く魅せられ、日本滞在中に観た向島のさくらはシドモアの心を掴み、ワシントン・ポトマック河畔の埋立地にさくらを植樹するための活動を行ったそうです。

 今年は開花が早いという予想ですが、これまで有田さくら会では約6000本のさくらを町内各所に植樹し、例年、4月1日にそのさくらを愛でる「お花見会」を開催されています。もうすぐ当館の周囲のさくらも満開となり、連日居ながらにして花見が出来るという贅沢な時間を過ごすことができますが、さて、見ごろはいつになるでしょうか?                  (尾) 

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