6.宮内庁御用達はいつから?

6.宮内庁御用達はいつから? 上幸平

◇宮内庁というのは、宮中に関することがらうぃ取りあつかう役所で、宮内庁御用達というのは、天皇ご一家で使用される物品を宮内庁に納める指定業者のことです。
◇江戸時代には、天皇ご一家で使用される焼き物食器は、上幸平の辻家で製造して納めていました。これはもちろん、辻家の製品がすぐれていたからで、たいへん名誉なこととされました。辻家が御用品をじかに宮中へ納めるようになったのは1774年(安永3)、辻家6代目の喜平次のときです。このとき喜平次は天皇から常陸大掾という官名を与えられ、朝廷の役人に任命されました。それは、天皇ご用品を作るものは官位がなくてはならないという理由からでした。それ以後、明治維新まで、辻家は代々この官名を受けついできました。
◇辻家9代目の喜平次は1811(文化8)に極真焼という新しい焼成方法を発明しました。それは磁器と同じ原料で作った匣鉢(「さや」とか「ぼし」とよばれる)の中に製品を入れて本窯で焼く方法です。製品がなめらかで純白な地肌に仕上がります。いまでも天皇ご一家のご用品はこの方法で焼かれています。
◇明治になってから、有田町で、いちはやく香蘭社という会社が設立されたことは別の項にあります。辻家は香蘭社設立者の一人でありましたから、明治8年香蘭社は宮内省(宮内庁の前身)から御用達にしていされました。のちに、辻家が香蘭社から分離独立すると、辻家も宮内省御用達となりました。1894年(明治27)9代深川栄左衛門の弟忠次が分家して磁器製造業を開始、1910年(明治43)宮内省御用達に指定され、翌年深川製磁株式会社を設立しました。
◇また、1933年(昭和8)には今右衛門窯が昭和天皇、皇后と貞明皇太后の和食器の御用達に指定されました。
(宮田幸太郎)

5.この塀は何で出来ているの?

5.この塀は何で出来ているの? 上幸平

◇有田内山の中心部に当たる上幸平や大樽などの裏通りを歩くと、茶褐色の土塀を見かけます。「トンバイ塀」といい、有田以外では見ることがありません。
◇トンバイというのは、登り窯を築くのに使った内壁用の四角い煉瓦のことで、赤土とその焼粉混ぜて固めたものです。窯がたかれるうちに、薪の灰をかぶり、摂氏1300度以上の高温を浴びて、表面が釉をほどこされたみたいにガラス質に変化し、微妙な色合いに染まります。そのトンバイの廃材が、登り窯をこわしたときにたくさん出ます。使い捨ての窯道具であるハマ(磁器を焼くときに器物の下に置く粘土製の丸い敷き物)やトチン(焼こうとする磁器をのせる粘土製の棒状の台)と廃材のトンバイとを赤土で固めて築いたのが「トンバイ塀」です。上部には屋根の形に瓦がかぶせてあります。
◇赤土で固めただけなので、長い年月に耐えることはできません。そこで、皿山の風物であった「トンバイ塀」も年をおって姿を消しました。有田町が1983年(昭和58)に調べたところでは、総延長が875メートル。86パーセントが上有田地区にあり、上有田地区でも半分近くが泉山の大イチョウから大樽の陶磁美術館までの通りにまとまっています。そこでこの通りを「トンバイ塀のある裏通り」とよんでいます。
◇江戸時代、焼き物の商人が町すじに店を構えていたのに対し、窯焼きは本通りからはずれた人通りの少ない場所に住みました。製陶技術のヒミツを守るのに都合がよかったからだそうです。そして屋敷と仕事場は「トンバイ塀」に囲まれていたのでした。
◇有田町歴史民俗資料館から西へ数百メートルの所にある広場に「陶工之碑」があります。有田焼創業以来の多くの陶工たちの功績をたたえるものです。碑はトンバイを主にし、この地方特産の三間坂石で補強してあります。高さ1.1メートル長さ8.2メートル。1982年(昭和56)11月に建ちました。
(吉永 登)

4.大イチョウの年はいくつ?

4.大イチョウの年はいくつ? 泉山弁財天社

◇有田町歴史民俗資料館を出て西の方角へ坂道を500メートルほどおりますと、右手の空にイチョウの大木がそびえています。初夏には目にもまばゆい新緑が、秋になるとあざやかな黄色に変わって、皿山の情緒に彩りを添えてくれます。
◇その大イチョウは泉山弁財天社の境内にあります。雄木で、樹齢は千年くらいとみられていますが、勢いを全く失っていません。高さは38メートル、根の周りが11.6メートル、人の目の高さ付近の幹回りが8.8メートル。枝の針は東西31メートルに及びます。佐賀県内では一番の巨木ですが、これだけ大きなイチョウの木は、おそらく全国的にも少ないでしょう。1926年(大正15)10月、国の天然記念物に指定されています。
◇イチョウは中国が原産地だといわれています。日本にも原産したとか、寺の境内などに多いことから、中国に勉強に行った僧侶が、観音像などと一緒に持ち込んだとか、いろいろな説があります。
◇そのようなことから、大イチョウのあるところに歴史あり、と人はみるのですが、弁財天社のいわれは分かっていません。ただ、境内を修理していたときに、朝鮮から渡って来た陶工が作ったものとみられる染付の茶碗や陶製の人形が出てきて、ここに古い窯があったことが証明されています。名工副島勇七の作だと伝えられる磁器の「赤絵狛犬」が奉納されていたという言い伝えなどから、弁財天社は、泉山に住む焼き物関係者の信仰の対象であったとみられます。もしかすると、街の背後にそびえる黒髪山にこもった修験者たちの道場の一つであったかも知れません。
◇イチョウは病害虫に強く、火にも耐えます。それが長命の条件ともいわれます。有田皿山が1828年(文政11)の大火に会ったとき泉山の窯元池田伝平窯は焼失をまぬがれましたが、屋敷が大イチョウの枝に抱かれていたからだと伝えられています。
(原口誠)

3.皿山とよばれるわけは?

皿山とよばれるわけは? 泉山・上の番所跡

◇有田皿山とは、有田陶磁器生産地の総称です。その村々を指す言葉でもあります。「皿山」とは、九州地方では陶磁器の生産地を指し、そこで焼かれたものを「皿山焼」とよぶことがありました。有田では、登り窯のある陶業地のことを、はじめ「皿屋」といい、のちに「皿山」というようになりました。
◇有田皿山は、内山・外山・大外山の3地域に区分されました。内山は現在の地区で分けると、泉山・中樽・上幸平・大樽・幸平・赤絵町・白川・稗古場・中ノ原・岩谷川内。つまり旧有田町の地域。外山は、有田町中部の外尾山・黒牟田・応法山・有田町西部の南川原山、西有田町の広瀬山・伊万里市の大川内山・一ノ瀬山。大外山とは、山内町の筒江山、武雄氏の弓野山・小田志山、塩田町の志田山、嬉野町の吉田山・内野山の六か所をいいました。
◇この場所は、江戸時代佐賀本藩によって口屋番所がおかれたところです。岩屋川内にあった「下の番所」に対して、「上の番所」とよばれていました。口屋番所の中でも特に泉山番所は、石場(磁石場)に近く、早朝から日暮れまで人馬によって焼き物土の出入りが片時も絶えませんでした。少しでも他領などへ盗み出す者がないよう、人や陶石の監視にあたっていたのです。
◇有田において磁器が初めて焼成されたのは江戸初期ですが、その年代はまだ確定されていません。慶長の朝鮮出兵の際、鍋島直茂が連れ帰った李参平(金ヶ江三兵衛)が有田の乱橋(三代橋)に住みつき、泉山で陶石を発見し、初めて白川の天狗谷窯で磁器の焼成に成功しました。この年代は、通説では1616年(元和2)とされていますが、近年の考古学研究では、それ以前に焼かれていたとする説も出てきています。なお、「有田皿山」という地名は、行政上では1889年(明治22)の市町村施行の際に消えています。
(浦川和也)

2.ここでは何を見せるの?

ここでは何を見せるの?

◇有田町歴史民俗資料館◇ ◇有田焼参考館◇

◇この有田町歴史民俗資料館は1978年(昭和53)10月に開かれました。建物の中には、有田町の歴史・民俗に関する資料や調査結果が保存され、一部を見せるようにしています。
◇それでは展示室に入ってみましょう。すぐ目につくのが中央にある登り窯の模型です。これは今日ほとんど目にすることができなくなった登り窯を10分の一に縮小したものです。窯の周りにある薪の束や、窯の中に積まれた壺や花瓶などを見ると、昔の有田の窯場風景がしのばれます。
◇向かって右手のケースには、1885年(明治18)の唐桟神社の祭りを描いた巻物や、炭火で蒸気を出したアイロンがあります。また、第二次世界大戦で物がなくなったとき、いろんな物を焼き物で作りましたが、その中の陶貨や手榴弾、防衛食容器などが展示してあります。一番奥のケースには江戸時代、皿山会所が発行した「窯焼名代札」があります。この木札がなければ焼き物を作れませんでした。窯焼きというのは、今の焼き物工場の社長のようなものです。その下で働く人は、めいめい「職人札」を持っていました。
◇正面には、今ではあまり使われなくなった、焼き物を作る時の道具類、例えば、ロクロとかヘラ、カンナなどが展示してあります。
◇渡り廊下を通って、隣にある有田焼参考館へ行ってみましょう。ここには、割れたり、まがったりした茶碗や、皿、壺が並べてあります。これらは約400年前に有田で焼かれたものです。当時の製品は日本国内や国外で売られていきましたが、今とちがって失敗することが多く、捨てられたものが土の中にうもれています。研究者がそれらを掘り出し、水洗いをし、カードを作ったり、本にしたりするのです。それを保存し、一部を展示します。これらの陶片によって、有田焼の移り変わりを知ることができるのです。
(尾崎葉子)

 

⇒◆もくじ◆ 

1.陶石はなくならないの?

「陶石はなくならないの?」 泉山磁石場

◇泉山の磁石場に立ちますと、その景観にまず驚かされます。岩が露出して木がなく、、道路や家のある地面より、はるかに下の方まで掘り下げられています。こうした奇妙な景色は、有田焼の原料となる陶石を掘り続けたためなのです。現在は岩山に囲まれて、大きな半円球の穴があいたような状態ですが、陶石が発見された17世紀の初めには、この空間は山そのものだったと考えられます。約400年の間に山を一つ削り取ってしまったばかりか、さらに下の方まで掘りおこした結果が現在の姿なのです。
◇陶石とは、石英粗面岩の一種で、石英やセリサイト(絹雲母)を主成分とし、鉄分の少ないところは、白い色をしています。硬い石なのでつるはしで掘りますが、今日では電気ドリルなどが用いられ、運ぶのも馬車からトラックへ変わりました。道具が進歩して掘るスピードが増せば掘る量がふえ、限られた資源ですからいずれなくなってしまいます。
◇この磁石場は「石場」と呼ばれました。貴重な原料であるため、江戸時代は皿山代官所が厳しく管理しました。明治になると、有田の窯焼き(陶磁器製造業者)たちによって管理されます。1875年(明治8)の記録によると、広さは1万4978坪(約5万平方メートル)です。石場の管理は後に、町民と窯焼きから委員を選び、組合によって行われるようになりました。1897年(明治30)ごろは、1年間で一千六百斤(約1万24トン)もの陶石が掘られています。掘った陶石は全部使うものではありません。鉄分を含んだ部分は焼き物が白くならないので捨てます。四割ぐらいが捨てられたようです。掘り方も無計画でしたので、だんだん掘りにくくなり、陶石の価格が上がりました。
◇有田焼は、主に泉山の陶石を原料として作られてきましたが、大正時代になると、熊本県の天草陶石が多く使われるようになりました。泉山陶石は今日では年間7、8千トンが使われています。
(鈴田由紀夫)

⇒◆もくじ◆