36.有田焼はどれ位できるの?

36.有田焼はどれ位できるの?
有田町役場

◇有田町では、働く人の多くが焼き物にかかわっています。焼き物をつくる人、焼き物を運ぶ人、焼き物を売る人、その仕事はさまざまです。
◇有田町の焼き物製造業の出荷額は年間約三百二十二億円(平成三年度)です。有田用内の製造業の総出荷額は約三百七十八億円ですので、焼き物はその八五パーセントをしめていることになります。この数字だけでも、焼き物が有田町のイメージであるだけではなく、町民の暮らしを支えていることがわかります。
◇ひとくちに焼き物といっても、色々な種類があります。ここでは用途によって①和用食器、茶道具などの食卓磁器②置き物、美術品などの装飾磁器③タイルなどの建築用磁器④電気・工業用磁器の四種類に分けてみます。食卓磁器が焼き物の出荷額の四八パーセントを占めて一位。つづいて建築用磁器の三〇パーセント。伝統に支えられている有田焼ですが、時代の注文にこたえ、新しい分野を切りひらいていかなければならないということでしょう。
◇種類別の出荷額を事業所の数で割ってみます。建築用磁器の約二十三億七千万円が筆頭。電気・工業用磁器の約三億三千万円が次ぎます。これらの製品は、近代的な機械を入れてたくさんつくることができるからでしょう。もちろん、近代化は食卓磁器や装飾磁器を含めた有田焼全体についてもいえることで、これからも進められていくでしょう。伝統的な美術工芸品ばかりが有田焼を支えてきたのではありません。親しみやすく良い食器類を消費者に提供してきたことも有田焼の歴史なのです。
◇最後に海外への輸出高ですが、出荷額の約五パーセントです。江戸時代には東南アジアから遠くはヨーロッパまで輸出され、あちらの焼き物産業に大きな影響を与えました。その伝統は今も生きています。

(野上建紀) 

35.焼き物にたずさわる人数は?

35.焼き物にたずさわる人数は?
有田町役場

◇有田町では、全人口一万三千八百二十六人(一九九〇年十月一日現在※合併前)の約五三パーセントに当たる七千三百七十六人が職業についています。うち千四百六十一人が昼間は町外へ働きに出ています。一方、昼間は三千九百六十七人が西有田町、山内町など周辺市町から有田町に働きに来ています。これから計算しますと、有田町では、昼間人口の五八パーセントのやく九千九百人が働いていることになります。
◇ 有田町には、三百四軒の製造業を営む事業所があります。その中の約八三パーセントの二百五十一事業所が窯業関係で、ここでの昼間の就業者は約三七パーセントの三千六百四十八人となっています。
◇これらの事業者は、従業員が一人の小さなものから三百人以上の工場までさまざまで、窯元とよばれる事業所もふくまれています。

(田代文博) 

34.有田皿山の山と川は?

34.有田皿山の山と川は?
有田町役場

◇有田町(旧有田町)は山に囲まれた谷あいの町です。そして、町中を流れる有田川といくつかの支流にそって家並が続いています。そのため平地の面積は町の総面積の三十パーセントに過ぎません。
◇佐賀県の西部にある有田町は、総人口一万三千八百二十六人(一九九〇年十月一日現在)、面積二六.七四平方キロメートル。決して大きな町ではありません。空から見下ろしてみると、方々に窯場の煙突が見られ、旧国道ぞいには商家の軒瓦と窯場がつらなっています。焼き物こそ有田町の顔なのです。
◇つぎに町中から 周囲を見上げてみましょう。町の北の端には黒髪山(五一八メートル)がそびえ、その山を中心とした黒髪山系の姿はたいへん印象的です。標高こそ高くありませんが、長い年月にわたる浸食作用のため、渓谷は複雑にきざまれ、切り立った岩がつらなっています。また、神六山(四四七メートル)、原明岳(三二〇メートル)、金山岳(三五二メートル)、蓮花石山(三四九メートル)、英山(二八二メートル)など山々は、新緑や紅葉で化粧して私たちに四季を教えてくれます。
◇そうした山々の四季を映す有田川は、戸杓川、上南川原川、黒牟田川、丸尾川、中樽川、白川などの支流を束ねて町中を走ります。そして、かつて有田焼を全国へ海外へ運び出す港であった伊万里湾へと今も水を運んでいるのです。豊かな自然と四季。その中に抱かれて、磁器のふるさとは生命を長らえることが出来ました。
◇約四百年前まで有田町は名もない集落でした。それが国内で初めて磁器を焼き始めてから、その名を広く海外にまで知られるようになりました。
◇もし有田町が磁器と出会わなかったら、今も名のない顔のない町でしたでしょう。

(野上建紀)

33.有田で金もとれたの?

33.有田で金もとれたの?
古木場金山跡

◇有田中部の古木場地区は、 江戸時代の寛永年間(1624~1644)、金山として大変なにぎわいを見せていました。1627年(寛永4)に肥前国をさぐりに来た幕府隠密の報告書には、有田の磁器については何も記されておらず、金山についての記事が中心になっています。当時、幕府は金銀の鉱山の開発に強い関心があって、隠密も金山の調査に重点を置いたものと思われます。その報告書によりますと、有田金山は1625年(寛永2)の12月から掘り始められ、翌年の3月には均衡を掘りあてて、一時は6、7千人の人が入りこんでいたと伝えられています。
◇この金山は露天掘りではなく 、坑口から坑道(“まぶ”という)を掘り進んで行く“まぶ山”とよばれました。まぶの数は60ばかりあったものの、実際に金鉱(くさり)を掘りあてたのは2つほどであったと記されています。しかし鉱脈が貧弱だったと見えて、まもなく金がとれなくなって山はさびれました。隠密が有田に来た1627年2月ごろは、人家が5百から7百軒。そのうち30軒ほどは商家で、町並みは城下町のようにみごとであったと書いています。隠密が「金がとれなくなった山に何で住んでいるのか」と尋ねますと、米などの借りがあって、出入りを監視している口屋番所を出られないまま居ついていると答えています。金鉱石が流出するのを防ぐため、金山の周囲約12キロには柵がめぐらされ、口屋以外から物を買うことも禁じられていた様子がうかがえます。
◇初代佐賀藩鍋島勝茂の年代記にも有田金山の記事があります。それによると、1625年の4月から5月までに人夫百人で金108匁(1匁は3.75グラム)を掘り出し、あくる10月までに金1貫523匁(1貫は千匁)を産出しています。この年から2、3年掘り続けたものの、経費ばかりかかって金はさほど出なくなったため、1627年の終わりごろには廃坑となったものと考えられます。

(吉永 登)  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

32.荷造りと運ぶ方法は?

32.荷造りと運ぶ方法は?
戸矢番所跡

◇ 有田で作られた焼き物は、まず伊万里へ運ばれ、そこから船に積まれて日本各地へ送られていきました。そのため、有田焼は積み出し港の名前をつけて「伊万里焼」とよばれていました。
◇焼き物を運ぶためには荷造りをしなければなりません。昔は稲わらを使って荷造りをしていました。皿や茶わんや花びんなど、色々な形の物を荷造りするには専門の技術がいりました。 荷造りを職業にする人たちを荷仕(にし)とよんでいました。荷造りされた焼き物は、昔は人が「てんびん棒」でかついだり、または牛や馬の背にのせて伊万里まで運びました。1897年(明治30)に佐世保線が開通し、翌年に伊万里線(現在の松浦鉄道)が開通すると、焼き物は有田から直接鉄道で運ばれるようになりました。1950年代(昭和25~30年代)にダンボール箱が普及しました。荷造りはだれでもできるようになり、荷仕の仕事はなくなりました。荷を運ぶにも、主にトラックが使われるようになりました。
◇ところで有田焼は、江戸時代にはさかんにヨーロッパに輸出されていましたが、その窓口になったのは長崎の出島にあるオランダ商館でした。有田から長崎まで焼き物を運ぶには3つのルート(道すじ)がありました。
◇第1は、有田から伊万里へ運び、そこから船で長崎まで運ぶルート。第2は有田から嬉野へ出て、そこから長崎街道を長崎へ運ぶ陸上のルート。第3は有田から波佐見を通って川棚へ出て、そこから船で大村湾を渡るルート。このうち第3のルートは、途中に戸矢番所がありました。 戸矢番所は佐賀藩と大村藩の藩境を警備する番所で、そこには佐賀藩の役人が駐在していて、通行人や品物をきびしく検査しました。人は通行手形(パスポート)がなければ通れなかったし、品物は許可証がなければ取りあげられてしまいました。

(宮田幸太郎)

30.職人にはどんな職種が?

30.職人にはどんな職種が?
佐賀県立有田窯業大学校

◇ 有田陶磁美術館に「染付有田皿山職人尽し絵図大皿」があります。江戸後期の作で、大樽の文人画家江副琴岳の筆になるともいわれ、県重要文化財(歴史資料)に指定されています。
◇この大皿に、江戸時代の有田皿山で働く人びとの姿が、いきいきと描かれています。当時の有田焼の作り方や製作工程、また働く人びとの姿をみることができます。 職人たちの楽しい会話も聞こえるようにさえ思えます。
◇有田焼の製作工程は、昔から、分業化されており、それぞれの工程で、専門の職人が、その技術を発揮して、それらがひとつになって焼き物がつくられてきました。
◇この大皿の絵をみると、泉山石場で原石を掘る人、唐臼小屋に運び粉砕する人、水簸などで陶土をつくる人、細工場(さいくば)で形をつくる人、石臼で呉須を摺る人、絵付けをする人、うわぐすりをかける人、窯をたく人、薪を準備する人、選別をする人など、さまざまな仕事をする人が集まり、みんなで、ひとつの焼き物をつくりあげます。
◇ 焼き物をつくる人の中でも、中心になるのは、やはり、細工人(さいくにん)でしょう。細工場に入ると車つぼの中で、蹴ロクロをつかって形をつくる人を中心に、土をこねたり、運んだりする荒仕子(あらしこ)といわれるお手伝いをする人も働いています。ロクロでは出来ない形を型に打ちつけて成形する型打ちの職人もいます。また、素焼きに絵付けする絵描きさんも重要な職人です。絵描き座では、素焼に呉須で染付をします。りんかくの線がきをするのは男の人で、絵描きさんと呼ばれ、そのりんかく線の中を有田特有の大きな濃筆で塗りこんでいくのは、女の人で、だみ手さんと呼ばれています。
◇ 基本的には、この伝統的な技法は現代も受け継がれています。焼き物をつくる人びとはその技術を身につけ、新しい感覚で、それぞれの分野で力いっぱい仕事をし、現代の美しい有田焼をつくります。

(古屋 伸二)

29.あとつぎは育っているの?

29.あとつぎは育っているの?

佐賀県立有田窯業大学校

◇近年、全国の伝統工芸の産地では、すぐれた技術をもったあとつぎが少なくなり、その養成がいそがれています。
◇ 江戸時代から藩の保護により、各地でその土地の素材を生かした特産品として、色々な生活用具や工芸品が作られました。明治新政府になっても、国を豊かにし外国との貿易をさかんにするために、産業や伝統工芸などが奨励されました。そのために日本は昔から、すぐれた伝統工芸の国として外国にも知られてきました。しかし1900年代から産業革命が進んで機械化が取り入れられると、機械でたくさん作ることに力がそそがれ、手仕事による長い年月をかけた技術を身につける人が少なくなりました。とくに1960年代後半(昭和40年代)から日本は高度成長の時代にはいり、地方の若い人達は都会へ出て大企業につとめ、郷里にのこって伝統的な仕事をするあとつぎが減りました。
◇有田も事情は同じでした。そこで、あとつぎの養成には特に力を入れてきました。1881年(明治14)に陶器工芸学校の「勉脩学舎」が設立されてから今日まで、有田徒弟学校、有田工業学校、有田工業高等学校が、さらに新しい時代の人材を養成するため、1985年(昭和60)に陶磁器専修学校である佐賀県立有田窯業大学校が開校しました。有田町や、町内陶磁器業界、近隣の市町、業界が一体になって設立委員会をつくり、苦労のすえ実現にこぎつけたものです。陶磁器科2年制と研究科1年制からなり、デザイン・釉薬・絵具・焼成など、新しい陶磁器を作るのに必要な知識と技術を身につけてもらいます。学生達は県内ばかりではなく日本各地に及び、外国からの留学生もまじって、明日の陶磁器界を担うべく実験や実習にいそしんでいます。2つの科のほか、短期研修制度として、ロクロ研修1年、下絵付研修6か月、上絵付研修6か月のコースがあり、伝統的な有田陶磁器生産の技能者が育っています。

(井手誠二郎)
※2016年4月より佐賀大学へ移行します。→佐賀県立有田窯業大学校HP

28.ニューセラミックスとは?

28.ニューセラミックスとは? 佐賀県窯業試験場

◇粘土などの原料を高温で焼いた製品のことをセラミックスといいます。で、ニューセラミックスとは、新しい焼き物という意味です。約400年前、日本で最初の時期がつくられたころの有田では、磁器がニューセラミックスだったといえます。
◇現在でいうニューセラミックスとは、原料を人工的に純粋な状態で製造し、成形から焼成、仕上げまで、厳しく管理されて生産される焼き物のことをいいます。
◇ニューセラミックスで色々な製品がつくられていますが、身近な製品では、包丁やハサミのような刃物があります。ニューセラミックスの刃物は、主にジルコニアという原料を使用します。 この原料の一つの粒は、約1万分の3mm程度に小さく粉砕されています。この原料をプレスという成形機で、高い圧力をかけて刃物の形に成形し、1500℃から1600℃の高温で焼き上げます。焼き上がった板は、非常に強いもので、普通の焼き物の20倍から30倍の強度を持っています。しかし、このままでは切れませんので、つぎに、ダイヤモンドを使って少しずつけずって、刃立てをして刃物にするのです。硬い、さびない、というニューセラミックスの特徴をいかした製品の一つです。
◇他の例として、コンピューターにもニューセラミックスが使われています。シリコン材料の電気を通したり通さなかったりする性質を利用し、セラミックスの電気的特性をいかしたものです。
◇このほかにも、磁力をもったセラミックス、光を通すセラミックス、人間の骨に似たセラミックスなど、多くの例があります。
◇有田でも10年ほど前から、県窯業試験場などで研究がはじめられ、1300℃から1500℃で使われる高温材料や金属に代わる強度の強い材料などがつくられています。今後の発展が期待されます。県窯業試験場ではニューセラミックスだけではなく、窯業に関する全般の研究、試験、指導が行われています。

(古屋伸二)

27.焼き物を作る順番は?

焼き物を作る順番は? 佐賀県窯業試験場

◇焼き物は土や石などの原料を形にして、それを焼いて作るものです。形が出来上がるまでいくつもの工程を通ります。それは遠い昔の縄文式土器であっても現代のニューセラミックスであっても変わりありません。磁器である有田焼もそうで、文様(もんよう)をつけたり、釉をかけたり、色絵を描いたりする工程が加えられています。それでは、白磁、染付、青磁などの工程を追ってみましょう。
①採石 有田焼の原料は陶石と呼ばれる石です。有田焼は泉山という所で陶石が見つかってから始まりましたが、今では天草産の陶石が多く使われています。採掘された陶石はハンマーでくだかれ、いくつかの等級に選り分けられます。
②成土 石のままでは形をつくれないので、クラッシャーという機械でくだき、さらにスタンパーという機械で細かい粉にします。その粉に水を加えて適当な堅さの陶土をつくります。
③土こね 次に陶土をよくこねます。陶土の中の粒にむらがあったり、空気の泡があったりすると、焼いた時に割れてしまったり、ゆがんでしまうからです。
④成形 形や大きさに合わせていろいろな 方法を使いますが、回転するロクロの上に陶土をのせて形をつくっていく方法がふつうです。
⑤素焼 ゆっくりと乾かした器をまず低い温度(約900℃)で焼きます。
⑥下絵付 染付という青色の文様はこの工程で描かれます。素焼された器の表面に呉須(あい色の絵具)などで描きます。
⑦施釉 器の表面をガラス質でおおうために釉薬を一面にむらなくかけます。
⑧本焼 ガスなどの燃料を使って、器を約1300℃の高温で焼き上げます。色絵磁器などはさらに上絵付・上絵付焼成の工程が続きます。

(野上建紀)

26.磁器と陶器はどう違うの?

磁器と陶器はどう違うの? 九州陶磁文化館

◇私たちは陶器の花びんや磁器の皿などをふだん何げなく使っています。このような陶器や磁器にはどのような違いがあるのでしょうか?九州陶磁文化館の展示室の最初のところに「やきものの分類」という展示コーナーがあり、土器、陶器、炻器、磁器の四つに分けて、それぞれの作る時の条件や見分けかたを説明しています。

 
  土 器 陶 器 炻 器 磁 器
つくるときの
条件  
素地の原料 有色粘土 有色粘土 有色粘土 白色粘土-長石-珪石、
陶石
釉 薬 な し あ り な し
または
あ り
あ り
焼成温度 800℃前後 1000~
1300℃
1200~
1300℃
1300~
1400℃
見分けかた    素地の色 有 色 有 色 有 色 白 色
素地の透光性 な し な し な し あ り
素地の吸水性 あ り あ り な し な し
 たたいた時の音  にぶい音 にごった音 かたい音 すんだ金属音

◇このほか、化学薬品に強いものなど、特殊な性質や特色をもった焼き物がたくさんあり、ナイフや包丁や自動車のエンジンまで、いろいろなものに利用されています。
◇佐賀県立九州陶磁文化館は1980年(昭和55)に開館した焼き物専門の美術館です。
◇この館のしごとは大きく四つあります。
○四つの展示室を使った展示活動
○焼き物と焼き物に関する資料を集める収集活動
○焼き物の歴史や産業との関わりなどを調べる調査研究活動
○講演会、映写会、陶芸教室などの教育普及活動
◇また館の中には、焼き物を大切にしまっておく収蔵庫、焼き物の形をつくるロクロ室などの陶芸教室、講堂などがあります。常設展示室には101点の古伊万里(蒲原コレクション)があり、見学者の目をひいています。(※古伊万里の展示数は1989年9月1日時点)

(宇治 章)

 

 

 

 

31.技術を身につけるには?

31.技術を身につけるには?
佐賀県立有田工業高等学校

◇焼き物の技術を身につけるには、 ふつう少なくとも十年はかかるといわれています。江戸時代には現在のような学校がなく、絵描きさんや窯焼きに弟子入りして勉強しました。絵描きの修行には特に年期の定めはなく、自宅から絵描き座へ通いました。ろくろなどの細工習いは、7年くらい窯焼きの家に奉公して修行しました。最初の2,3年は小使いと手伝いばかりで、めったに車壺(ロクロ場)へは入れませんでした。年期を終えると1年間お礼勤めをし、8年目にやっと一人前の細工人として賃金がもらえるようになりました。
◇明治の新しい時代を迎えると、有田皿山でもいろいろな改革が行われました。白川小学校長の江越礼太は、有田焼の後継者養成のために、 1881年(明治14)日本で最初の陶器工芸学校「勉脩学舎」を白川に作りました。1895年(明治28)になると、西松浦郡の1町4か村の組合立有田徒弟学校ができ、京都などから有名な先生を迎えて教育をしました。費用には泉山磁石場の純益金と県や国の補助金をあてました。
◇1900年(明治33)、当時の町長横尾謙や町内有志の努力によって、 佐賀県立佐賀工業学校有田分校が泉山にできました。4年生の図案、製陶科などをもつ学校でした。1903年(明治36)独立して佐賀県立有田工業学校となり、全国から陶磁器、図案絵画の先生を迎え、生徒も九州全域、四国、中国地方から集まりました。卒業生のなかから江副孫右衛門、12代中里太郎右衛門、12代今泉今右衛門、13代酒井田柿右衛門ら日本陶業界をリードした多くの人材を送り出しています。1948年(昭和23)、第二次世界大戦後の学制改革により、佐賀県立有田工業高等学校(窯業・デザイン・工業化学・電気・機械科)となりました。卒業生は全国の陶磁器業界や陶芸界などで活躍しています。また1989年(平成元)には新しく陶磁器コースが作られました。

(井手 誠二郎)

25.伝統的な焼き物の工程は?

25.伝統的な焼き物の工程は? 九州陶磁文化館

◇焼き物を大きく分けると陶器と磁器になります。例えば唐津焼は陶器、有田焼は磁器です。陶器は粘土か土を使いますが、磁器を作るにはまず陶石から陶土をつくらなければなりません。陶石を金槌で粗砕きをしてよく乾燥させ、これを唐臼(からうす)で長時間粉砕します。白い粉になったものを大きな樽やタンクに水と一緒に混ぜ合わせ、攪拌します。白い濁り水になったところを別の樽にくみとり、沈殿させます。この作業を土漉、または水簸(すいひ)といいます。二、三日たって上澄みを静かに捨てると白い沈殿物が出来ます。これが陶土で、これを素焼鉢や匣鉢(さやばち)に移して水分をぬき、成形に必要な硬さにします。
◇次に器物を作る工程に入りますが、その準備として土踏みをします。これは陶土の中に含まれる空気をぬくためと、硬軟入りまじっている粘土を均一にするためのものです。この土をロクロの上に置き、形をつくります。この作業を細工といい、ロクロ細工と型細工があります。細工を職業とする人が細工人で、有田では「シャークニン」とよびます。
◇形をつくったあと、製品を二、三日乾燥させ、削りカンナで仕上げをします。その後、水ふき仕上げで素地の表面をなめらかにします。摂氏850度位で素焼をします。
◇素焼の製品の上に、呉須(ごす)という絵具を使って絵をかきます。呉須に水を加え、引き臼ですりつぶして絵付けをすることを線がきと濃(だみ)といいます。
◇下絵付が終わったら釉かけをします。この釉は長石・硅石に石灰分を調合します。石灰分は柞灰(いすはい)、土灰などを調合したものです。ウワグスリともいいます。
◇施釉が終わったら本焼するため、窯詰めします。今はガス窯がほとんどですが、登り窯の頃は窯焚きが全責任を持ちました。本焼の温度は1300度~1500度位。
◇上絵をつけるときはさらに本焼した製品に絵付けをします。このように、すべての工程が分業で行われていて一つの焼き物が出き上がるまでには多くの人の手を経てきました。

(広尾 甫)

24.焼き物を生む前の有田は?

24.焼き物を生む前の有田は? 小溝・清六

◇1605年(慶長10)から10年(同15)ごろに作られた「慶長年中肥前国絵図」という地図を見ますと、現在の有田町の地域は旧曲川村(現在の西有田町)の一部に入っていて、外尾・すがの・ふるこば・境野・戸矢・大野などの地名はありますが、上有田地区の地名は書かれていません。言い伝えによりますと、かつての上有田地区には農家が数軒あって、土地の人は「田中村」とよんでいたそうです。
◇西有田町は、かつての曲川、大木、山谷の三村が一つになったものですが、その山谷村の牧地区に唐船城があり、有田氏が館をかまえて有田郷を支配していました。十一世紀の中ごろ(1050年ごろ)、松浦地方(佐賀・長崎両県の一部)を支配するため、京都から移ってきた源氏の一族があり、松浦党とよばれていましたが、その一つが有田氏です。1577年(天正5)、有田氏は佐賀の龍造寺氏の部下になりました。さらに龍造寺氏のあとを引きついだ鍋島氏は、有田氏を佐賀方面へ移住させ、有田郷と伊万里郷を直接治めることにして、大木村に代官所を置きました。
◇有田、西有田両町を有田川が流れています。その流域では、人々は農業で暮らしをたてていましたが、1500年代の終わりごろから清六や小溝あたりでは農業のかたわら陶器を焼くようになりました。陶器を焼く技術は唐津方面から伝えられたもので、清六や小溝で焼かれた焼き物は唐津焼です。ところが1616年(元和2)、泉山で磁器の原料となる陶石が発見されると、たちまちのうちに磁器製造がさかんになり、多くの人が集まってきて磁器を焼きはじめ、窯にたく薪にするため山の木を切り荒らしました。そこで佐賀藩は、1637年(寛永14)に窯焼きの資格と窯を焼く場所を定め、それ以外の人や場所では焼き物を作ることを禁止しました。その結果、焼き物生産の中心は旧有田町となり、代官所も有田町白川に置かれました。

(宮田幸太郎)

23.十区七山とはどんな意味?

23.十区七山とはどんな意味? 外尾山

◇この「外尾山」の「山」というのは、「焼き物を作るところ」という意味です。有田の古い唄の文句に「有田皿山、茶碗山」というはやし言葉がありますが、この「皿山」とか、「茶碗山」という「山」も、やはり、「焼き物を作るところ」という意味です。日本ではじめて作られたのは有田町だということはよく知られています。それまでは磁器は中国から輸入されていたのですから、有田町で磁器が焼かれたということは歴史的に大きな出来事だったのです。しかも、磁器の原料となる陶石は、江戸時代の後半までは日本中でただ一か所、泉山の磁石場だけから掘られていました。そこで佐賀藩は、有田の焼き物産業を保護するために、陶石がほかの土地へ運び出されないようきびしく取り締まり、窯焼きの人数や窯場の地域を限定しました。
◇江戸時代の有田皿山は内山と外山に分かれていました。内山は旧有田町の地域で、外山は外尾山・黒牟田山・応法山・南川原山・広瀬山・大川内山・一ノ瀬山をいい、これ以外の地域で泉山の陶石を使って焼き物を焼くことは禁止されていました。そして、この制度は江戸時代から明治時代になってからも引き続いて守られました。
◇1924年(大正13)、泉山磁石場組合は当時の行政地名にもとづいて規則を定め、有田町(泉山区・中樽区・上幸平区・大樽区・本幸平区・中野原区・白川区・赤絵町区・稗古場区・岩谷川内区)の十区と、有田村のうち外尾山・応法山・黒牟田山・曲川村のうち南川原山・大山村のうち広瀬山・大川内村のうち一ノ瀬山・大川内山の七山のほかは泉山の陶石を使用してはならないと決めました。
◇つまり十区七山とは、江戸時代から泉山の陶石を原料として伝統的な有田焼を焼いてきたところという歴史的な意味をもつのです。有田磁石場組合は、計17か所に記念の石碑を建てる事業を進めています。

(宮田幸太郎)

 

22.赤絵の技法はいつから?

22.赤絵の技法はいつから? 南山

◇赤絵は有田で磁器を焼き始めてから30年くらいあとに始まりました。1646・7年(正保3・4)ごろのことです。昔のことなので、正確な記録はなかなかのこらないものですが、酒井田柿右衛門家に残された赤絵のはじまりについての「覚」と書かれた古文書が、唯一この事情を私達に教えてくれるのです。この記録と、発掘調査で古い窯跡から掘り出された赤絵の素地からこの年代が推測されました。
◇最初に磁器を焼いた陶工達は赤絵を作る方法を知りませんでした。ところが、有田焼の輸出港伊万里に焼き物をあつかう有力な商人で、東島徳左衛門という人がいました。徳左衛門は長崎で中国人技術者からこの赤絵を作る方法を学び、それを有田の年木山(現在の泉山付近にあった窯場の名)にいた酒井田喜三右衛門に教えて作らせたのです。
◇しかし簡単には成功せず、大変苦心したようです。そして、ごす権兵衛という人の協力もあって、ようやく赤絵を作るのに成功しました。
◇その赤絵を長崎に持って行って、初めて売ったのが、「がりあん船」が来た6月初めごろのことと書かれています。がりあん船というのは、当時、わが国とは鵠校のなかったポルトガルの船で、長崎港に入らないようにするために、佐賀藩は兵を送ったり大騒ぎをしました。そこでよく記憶されていて、年号の代わりに書いたものでしょう。その年は1647年(正保4)です。
◇染付だけの製品に比べて色彩豊かな赤絵は、高級品として盛んに作られるようになります。最初のころの赤絵は、普通古九谷とよばれているような焼き物でしたが、だんだん絵具などがかわっていきます。それに、初めは赤・緑・黄・青などの色絵具だけだったのが1658年(万治1)ごろには金・銀を焼き付ける方法も加わりました。こうして有田の華やかな赤絵の歴史が始まったのです。

(大橋康二)

21.なぜ煙突が多いの?

21.なぜ煙突が多いの? 黒牟田・応法

◇焼き物をつくるためには、焼くための窯が必要です。有田町でよくみかける煙突は、窯の煙突です。
◇窯にはいろいろな種類があります。なかには電気窯のように煙突のない窯もあります。煙突は燃料や、窯の構造などによって違っています。江戸時代、焼き物は登り窯で焼いていましたが、登り窯そのものが煙突の役目をするので、ふつう煙突はなく、あってもごく低いものだったと考えられています。それでは燃料の変遷はどうなっているのでしょうか?
◇江戸時代、登り窯で使った燃料は、「たたらぎ」とよばれる松の薪でした。松の薪はほのおが長く、焼いた後に残る灰の量が少なく、特に赤松材がよいとされました。薪はたくさん必要とされました。江戸時代のはじめに、多くの人が焼き物作りを始めて、まわりの山の木をたくさん切り、薪にしたので、木が少なくなって困ったことがありました。そのために佐賀藩は命令を出して、焼き物を作る人を制限したりしました。そののち、藩は山林を保護するために、木材や薪を不正に運搬するのを取り締まったり、木を切ったあとは植林することを義務付けたりしました。しかし、薪は広い置き場がいることや、山から切り出して運び、木の皮をはいだり、乾燥させたりと、たいへん手のかかる燃料でした。
◇明治時代になると、ヨーロッパから石炭窯が伝わり、燃料も薪にかわって石炭を使うようになりました。石炭は薪よりも豊富に手に入り、多くの石炭窯が作られました。石炭窯にはレンガ造りの高い煙突がつけられ、たくさんの煙突が立ちならぶ有田の風景は焼き物の里を印象づけるものとなりました。1955年代(昭和30年代)ごろから、石油(重油)やガスが燃料として使われるようになりました。また電気を熱源として使うこともあります。有田では、伝統を守るために、まだ登り窯を使っている工房もあります。

(宇治章)

20.湖底に沈む評定場とは?

引用

20.湖底に沈む評定場とは? 有田ダム

青空を吸いつくし
湖心はうっとりと
微笑んでいる
風ひかれば 森うたい
潭はいま 静かに
傾く瑠璃の器

◇これは佐賀ゆかりの詩人、山本太郎が有田ダムの岸にたたずんでよんだ詩です。彼によって「秘色の湖」と名付けられたエメラルドグリーンの湖の底には、「評定場」とよばれた広大な盆地状の広場が眠っています。その昔、黒髪山に住む大蛇を退治するための相談がなされた場所という伝説から、そう呼ばれるようになったといいます。
◇このダムは1961年(昭和36)、約3年の月日をかけて完成しました。堤高27.5メートル、堤長108メートル、総貯水量は188万トン。飲用、農業用として、また有田川流域を洪水から守るために作られたものです。現在は12.2メートルの遊歩道が作られ、姉妹都市であるマイセンの森や白川生活環境保全林があります。キャンプ施設もあって、四季を通じて町民の憩いの場となっています。
◇ダムができる前、黒髪山から流れてきた水は、今の「ひょうたん島」の西側を巻き、評定場の台地を今度は東に巻いて白川の集落へと流れていきました。その流れは冷たく清く、白川谷一帯は、夏の休日ともなると町民のかっこうの避暑地になりました。会社や料亭所有の東屋がそこここに建ち、人はそこで横になりながら河鹿や野鳥の声を聞いてすごしました。
◇この黒髪山麓は薪の宝庫でした。雨の降らない日曜日は、朝から町じゅうの人が清流ぞいの山道に行列してマキをひろい、昼ごろには自分の背丈以上に積んだ薪を背負って、にぎやかに降りて行きました。それは家庭に石炭が普及する1955年ごろまで続きました。また、山道は白川釉石採石場に通じていて、陶石を満載した馬車が下っていました。

(吉島幹夫)

19.川に残っている穴は?

19.川に残っている穴は? 白川

◇時期は陶石といわれる焼き物の原料を使ってつくられます。泉山から掘り出される陶石はかたい石で、このままでは焼き物を作ることはできません。これを細かくくだいて粉にし、さらに粘土にしなければなりません。
◇この陶石を粉にするのは水碓です。有田では「からうす」とよばれ、唐臼と書くこともあります。川の中に残る穴は、この水碓をとりつけた跡です。からうすは長さがおよそ4メートルほどで、なかほどに支点があり、テコの原理で動くようになっています。一方には水をためるように水槽がつけられ、もう一方は陶石をくだくための杵がついています。杵の下に臼が置かれています。川の水がたまると重みで下がり、水が川に流れ落ちて軽くなると、もとにもどり、このときに杵が臼の中の陶石をくだくというわけです。泉山から運ばれてきた陶石は大きすぎるので、それを5,6センチの大きさまで割り、戸外にしいたむしろの上に並べて、乾してから、からうすに入れて粉にしなければなりません。
◇有田ではからうすに屋根をかけて、「からうす小屋」とよび、このからうす小屋が川べりのいたるところにありました。からうすがどのくらいの数あったかは、正確には分かりません。江戸時代、からうすを所有していると、税金がかかりました。明治時代の税金の記録があり、それから計算すると約250にもなります。江戸時代にからうすをもつことができたのは窯焼き(窯を所有して本焼きを専門にする人)に限られ、窯焼き以外が陶石を買ったり、粉砕したりすることは許されませんでした。専門の製土業が許されるのは、明治時代になってからでした。
◇明治時代になると動力に蒸気を用られ、大正時代ごろから電力にかわりました。しかし塩田地方では水車を使った製土法が行われていました。現在では、電力を使ったクラッシャー(粗砕機)やスタンパー(粉砕機)が用いられています。

(宇治章)

18.有田に残る窯跡の数は? 白川・天狗谷窯跡

18.有田に残る窯跡の数は? 白川・天狗谷窯跡

◇有田の窯業は始まってからすでに四百年もたっていて、はっきりしないこともありますが、天狗谷窯跡のように土の中に埋もれて残っている窯跡の数は百基を超えるものとみられます。江戸時代にこのような登り窯の作られていた場所は、これまでに50か所ほど見つかっています。今の窯のように工場の中にあるのではなく、すべて山の中に作られていたのが大きな特徴です。
◇天狗谷窯跡からも分かるのですが、床面は山の斜面に沿って階段のようになっていました。今では崩れて残っていませんが、各段には団子の形をした天井が付いていました。この1つの段が1つの窯室で、ちょうど今の窯をたくさんつないだようなつくりでした。各窯室の大きさはだいたい横幅が3~8メートル、奥行きが2.5~5メートルくらいで、新しい窯ほど大きく作られています。全長はさまざまで、大きいものになると100メートル以上もありました。この様に大きな窯なので、何人かが共同で1つの窯を1つの窯を使っていました。
◇こういった窯を土の中から掘り出して、色々なことを調べるのが発掘調査です。発掘調査では窯跡のほかに、物原(失敗した焼き物を捨てた場所)も調べています。物原は普通窯跡横の谷に位置しています。失敗作をたくさん捨てすぎて、今では山になってしまった所もあります。物原には捨てた順、つまり古い順に焼き物が積み重なっています。ですから、焼き物の出土した場所を記録しながら土を掘って行くと、焼き物がどのようにして現在に至ったかを明らかにすることができます。
◇しかし歴史を研究したり学習することは、こういった昔のことを知ることが本来の目的ではありません。研究、学習して分かった歴史を、私たちのこれからの暮らしにどう役立てられるかが一番の問題です。ですから、私達がいつでも参考にできるように、文化財は大切に保存して行かなければならないのです。

(村上伸之)

17.明治の小学生は?

17.明治の小学生は? 白川学校(有田小学校)

◇1872年(明治5)、わが国最初の近代的教育制度である「学制」が定められました。同時に出された太政官布告で政府は、「村に学問をおさめていない家がなく、家には学問をおさめていない者がなくなること」を目指しました。江戸時代には主に武士や貴族のものであった学問が、女子を含めたすべての国民のものとなったのです。
◇有田でも、その年に白川学校(現在の有田小学校)が、翌年には外尾学校(現在の有田中部小学校)が開校しました。現在の小・中学校は義務教育で、その間、国民は権利として教育を受けることが出来ます。けれども、学生ができてからしばらくは、小学校へ行く児童も多くはありませんでした。授業料が高かったこともありますが、親たちが、陶工の子は陶業を習い、農民の子は畑仕事さえ習っておけばよい、算数や習字など身につけても何の役にも立ちはしないと考えていたからです。
◇ところで、そのころ小学校ではどんなことを勉強していたのでしょう。教科は、修身(今の道徳)・国語・算術・日本歴史・地理・理科・図画・唱歌・体操などでした。有田小学校では1888年(明治21)に英語をとり入れています。
◇1890年(明治23)、「教育勅語」が出されました。臣民(天皇の家来という意味)である国民は、国の一大事にあっては命をなげ出し、天皇に忠義をつくす忠君愛国が日本人の守るべき最高の道徳だと、子供たちは教えられました。この教育は第二次世界大戦が終わるまで続きました。
◇では、明治の児童はどんな服を着て通学したのでしょう。トッポーとよばれる木綿で織った筒袖の着物、手作りのぞうりがふつうで、はだしの子もいました。明治の終わりごろから、卒業式など特別な日には袴をつけるようになりました。筆記用具には、石盤・石筆という、くり返し使える道具を使っていました。

(尾崎葉子)

16.ワグネルはどんな人?

16.ワグネルはどんな人? 白川・勉脩学舎跡

◇ゴットフリード・ワグネルは、ドイツ人科学者で、日本の窯業の近代化に尽くした人です。1831年(天保2)、ハノーバーで生まれ、ゲッチンゲン大学で数学や博物学を修めたあと、1868年(明治1)、長崎へ来ました。当初ワグネルは、石けん工場の経営にかかわってきましたが、陶磁器への関心も深く、有田へ招かれて西洋の知識を授けることとなりました。有田に滞在したのは、1870年(明治3)の4月から8月初めまでの4か月たらずですが、その間に有田の陶工たちは、初めてふれる西洋の窯業知識に多くのことを学びました。その中の一つが、日本で初めて築かれた石炭窯です。この石炭窯は現在ありませんが、勉脩学舎跡に作られたといわれています。それまでは登り窯という山の斜面に築かれる長大な窯で薪を燃料として有田焼は焼成されてきました。それが平地に角型の窯を築き、しかも石炭で焼くという、日本窯業史上初めての実験が有田でなされたのです。この実験は十分な成果があったとはいえませんが、明治後半からは日本の各地で石炭窯が始まり、登り窯から石炭窯へ変わっていくきっかけとなりました。
◇ワグネルはまた、有田焼で使う絵具の改良にも貢献しました。有田焼に見られる藍色の文様は、呉須とよばれる中国産の天然鉱物を使ってきましたが、工業的に製造されたコバルトという絵具の使用法を教えたのです。これを用いれば呉須よりも鮮やかな色が得られ、しかもはるかに安い絵具でしたので、ワグネルが教えてから数年にして全国へ広まりました。
◇ワグネルは有田を去ったあと、東京の大学や京都で窯業化学を教えたり、新しい陶磁器の製造法について研究しますが、1890年(明治23)には有田を訪れて、勉脩学舎で講演をしています。2年後ワグネルは61歳で亡くなりますが、その功績を記念し、京都の岡崎公園と東京工業大学に碑が建てられています。

(鈴田由紀夫)

15.皿山に武士がいたの?

15.皿山に武士がいたの? 白川・皿山代官所跡

◇有田皿山にも他の地域と同じように武士の身分の者がいました。まず皿山代官所の役人たちがそうです。中級武士の皿山代官のほかに、郡目付(証書等の取扱い、運上銀の受納)、下目付(薪割当や窯揚げの時の立会人)、取納役(内外皿山の諸運上銀の受納・決算)、土場目付・土場番人(磁石場の警備、陶石の持ち出しチェック)、口屋番人(外部へ持ち出す品物の最後の検査、旅行者の警戒)、町警固(各所の巡回、運上銀徴収の手伝い、犯罪人の護送)などの役についている武士がいました。これらのほとんどは、手明鑓、徒士、足軽などの下級武士でした。
◇このほかに武士の階級を持った者が郷村内に住み、百姓や町民たちと居住を共にしていたことがあります。これは有田皿山だけでなく、佐賀藩全体の特色となっています。その多くは「被官」とよばれた者で、佐賀藩士と私的な主従関係を結び、ふだんは百姓・職人・商人・漁夫などの職業につき、非常の時には主人のために奉公したのです。藩の家臣は、その家禄高に応じた従者をもっていなければならなかったので、百姓や町人の中から、わずかな扶持米か、あるいは無給で彼らを召し抱えていました。被官の側としても、百姓や町民よりも高い家格や戦時における戦功の褒賞に魅力があり、持ちつ持たれつの関係でした。なお、被官は必ずしも主人のそばに住む必要もなかったので、佐賀藩内の有力家臣たちの被官が有田にも多く住んでいました。
◇さて、有田皿山の行政はどのようになっていたのでしょうか。皿山代官所のもとに皿山と農村部に区別され、それぞれ大庄屋・大散使・庄屋(別当)・村役(咾)・散使などがあり、その下に隣保連帯組織の五人組(佐賀藩では下級武士も含んで構成)がありました。また皿山には地域別の庄屋の他に土庄屋・赤絵付庄屋などの業種別の庄屋もありました。これら大庄屋以下の諸役は一般の百姓や町民の中から選ばれていました。

(浦川和也) 

14.皿山に代官がいたの?

14.皿山に代官がいたの? 白川・皿山代官所跡

◇有田には、有田・伊万里両郷を支配した「皿山代官」がおり、その役所として「皿山代官所」がありました。有田は他の佐賀本藩領と同じく、郡代(松浦郡代)と代官(皿山代官)によって二重に支配されました。犯罪人の取締りや逮捕などは松浦郡代の職務、租税の徴収や陶磁器生産関係のことは皿山代官の職務となっていました。皿山代官の管轄区域は有田・伊万里の両郷でしたが、陶磁器生産に関しては、この両郷以外の大外山も支配していました。
◇初代の皿山代官に任命されたのは、山本神右衛門重澄でした。重澄は、はじめ1635年(寛永12)正月17日付で佐賀以西の本藩領一帯の監察官に任命され、併せて伊万里・有田・川古(今の武雄市若木町)三郷の開発を命ぜられました。重澄はその職にある時、陶業者からの税徴収や本藩の借銀利払い交渉などで功績をあげました。折からの有田陶磁器業界の発展と相まって、1647年(正保4)12月に正式に皿山代官が創設されると、初代の皿山代官に就任しました。その後、皿山代官には中堅クラスの武士が任命され、1871年(明治4)7月に百武作右衛門(作十)が辞めるまで、41名以上の人物がこの職につきました。
◇それらの代官の中で、特に有田町民に敬慕されたのは成松万兵衛信久で、その業績は陶山神社の裏公園にある「成松信久碑」に詳しく述べられています。信久は調停の才にたけ、ひいきをせず、また自ら代官所の修理をしたりする親しみ易い一面がありました。このため有田町民に愛され、1829年(文政12)8月に役職が変わって佐賀に帰る時、「成松社」という石碑を建立してもらいました。皿山代官所の場所は、初め重澄が在職中に住んでいた大木村(有田町大木)にありましたが、後に白川山(有田町白川・現在の森病院付近)に移りました。

(浦川和也)

13.皿山になぜ異人館が?

13.皿山になぜ異人館が? 幸平

◇ここは有田の人が「異人館」とよんでいる建物です。1876年(明治9)、田代助作という人が、外国からの客をもてなすために建てたものといわれています。
◇田代助作の父は田代紋左衛門といって有田の本幸平で生まれた幕末の商人です。
◇1853年(嘉永6)、ペリーがひきいたアメリカの艦隊が浦賀(神奈川県)に入港し、徳川幕府に通商をせまりました。また同じ年にロシアの使節プチャーチンも長崎に来て同じ要求をしました。ペリーは翌年ふたたびやって来ると日米和親条約を結び、下田・函館が開港されました。その後、イギリス、ロシア、フランスとも和親条約が結ばれ、さらに1858年(安政5)には、修好通商条約がアメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスの五か国と結ばれました。それまでのオランダだけとの貿易時代は終わりました。
◇これにともなって有田焼の輸出制限もゆるめられ、田代紋左衛門が貿易商として免許を受けました。紋左衛門は横浜と長崎に店を出し、「田代屋」として外国人の間で大きな信用を得るようになりました。1867年(慶応3)における長崎の田代屋は、年に一万両の商売をしたといわれています。また長崎には中ノ原の久富与次兵衛も店を出し、貿易商として活躍しました。同年のパリ万国博覧会では、田代、久富両店が持っていた多くの焼き物が佐賀藩の出店として並べられました。
◇明治時代になると、紋左衛門の長男助作は中国(当時は清朝)の市場開拓にものり出しました。このように外国と常に接していた彼が「異人館」を建てたとき、有田の人びとはどう感じたでしょう。白壁土蔵造りの家並みの中に突如現れた洋風は、道行く人をアッといわせたにちがいありません。
◇当時を知る人が誰もいなくなった今、その感想を聞くことはできませんが、新しいものを進んで取り入れる気風は今も有田にあります。この家はいま田代家の子孫が住んでいます。(※)

(尾崎葉子)

※1989年9月に編集発行された当時

12.皿山にいつから会社が?

12.皿山にいつから会社が? 幸平

◇1871年(明治4)の廃藩置県と同時に、255年の間、佐賀藩の保護の下にあった有田皿山は独り歩きをしなければならなくなりました。
◇1873年(明治6)、有田皿山と外山7地区の窯焼きたちは話し合って「陶業盟約」という決まりを作って自立をはかりました。この年、オーストリアのウイーンで万国博覧会が開かれ、有田はこぞって出品しました。そして皿山一、二の有力者川原忠次郎が有田から初めて渡欧します。この万博で有田焼は大変な人気でした。そこで1876年(明治9)にアメリカのフィラデルフィアで予定されていた万博にも積極的に参加しようと意気ごみました。そのころ、右大臣岩倉具視を特命全権大使とする明治政府の最初の遣外視察団に加わって欧米12か国を回った久米邦武が有田を訪れました。彼の父はかつて皿山代官でした。久米は欧米で有田焼が好評だから、もっと発展させるため、欧米でカムパニーとよばれている会社を作ってはどうかと有田の人たちにすすめました。1875年(明治8)、8代深川栄左衛門、手塚亀之助、辻勝蔵、深海墨之助、同竹治の5人が資本を出し合い、合本組織香蘭社をつくりました。佐賀県で最初の会社で、全国的にも少ないものでした。その称号は中国の古典からとり、有田焼を蘭の香りのように世界に雄飛させようという意味でした。
◇その後、碍子の製造をはじめるなど進取的な深川と、伝統的な名工気質の辻、深海らとの意見が対立し、1879年(明治12)に手塚、辻、深海兄弟が香蘭社を離れ、「精磁会社」を作りました。精磁会社は川原忠次郎を加えて1887年(明治20)には日本で最も新しい近代工場を建てます。
◇第三者に資本の一部を仰ぐ株式会社という近代的組織は1911年(明治44)、幸平に設立された深川製磁株式会社が最初。家業的な会社か合名や合資という同族会社のころ有田では全く新しい試みでした。

(松本源次)

11.李参平はどんな人?

11.李参平はどんな人? 大樽・李参平の碑

◇豊臣秀吉は1592年(文禄1)と、1597年(慶長2)の2回にわたり、朝鮮半島へ兵を出しました。文禄・慶長の役とよばれていますが、韓国では壬辰・丁酉の和乱とよんでいます。肥前名護屋城近くに約30万人の軍勢が集まり、そこから約15万人が朝鮮半島へ渡り、多くの人々を殺したり、家を焼いたりして不幸な目にあわせた、実に悲しむべき事件でした。また兵を引き揚げるに際して、各大名は朝鮮の陶工を自国に連れ帰り、焼き物の生産に従事させました。このため朝鮮半島の焼き物の生産はとまり、粉青紗器(朝鮮の焼き物で陶器に白土で化粧し、その上に透明釉をかけたもの)や白磁の技術が途絶えてしまったほどでした。一方、九州・山口各地では朝鮮の陶工によって焼き物が盛んに焼かれはじめ、山口の萩焼、北九州の上野焼・高取焼、佐賀の唐津焼・有田焼、長崎の三河内焼・波佐見焼、熊本の八代焼・小代焼、鹿児島の薩摩焼などがはじまりました。それらの創始者たちが朝鮮の陶工であったこと、朝鮮の人びとの大きな犠牲の上に九州・山口の焼き物の発展のいしずえが築かれたことを忘れてはなりません。
◇佐賀藩に連れ帰られた陶工の中に金ケ江三兵衛がいました。『多久家文書』には三兵衛が多久家に仕えたのち有田に1616年(元和2)に移り住んだとあります。多くの朝鮮の陶工を支配した焼き物生産の指導者であったのでしょう。彼の墓は有田町の白川の墓地に、過去帳は西有田の竜泉寺にあります。それから1655年(明暦1)に亡くなったことがわかります。
◇佐賀藩は朝鮮から来た陶工の保護につとめました。1637年(寛永14)、山林保護のため、有田から826人の陶工を追放したことがありますが、そのときも朝鮮の陶工は例外としたほどです。江戸後期の『金ヶ江家文書』には三兵衛が李と称していたと記しています。それで今日、彼のことを李三平、または李参平と称するようになりました。
(吉永陽三)

 

10.この大鳥居も焼き物?

10.この大鳥居も焼き物? 大樽・陶山神社

◇大樽にある陶山神社の陶山を私達は「とうざん」と読みます。宮司さんは「すえやま」と呼んでいます。さて、この神社にまつられているのは誰でしょうか?主神は応神天皇で、いっしょにまつられているのが鍋島直茂と李参平です。
◇1592年(文禄1)から98年(慶長3)まで6年も続いた豊臣秀吉の韓国との戦争で、佐賀藩祖直茂は第一線で戦いました。その鍋島軍の道案内をしたのが李参平だといわれています。直茂が帰国するとき、佐賀に連れて来られた彼は、1616年(元和2)に泉山で陶石を見つけました。それから代々の藩主の手厚い保護の下で、焼き物の里有田皿山を築き上げます。亡くなったのは1655年(明暦1)、皿山の人々は彼を陶祖とあがめ、その霊をまつろうと思いましたが、渡来人ということで大っぴらに出来ません。一年後の1656年(明暦2)、二里村(今の伊万里市)の大里にある八幡宮のご神体を頂いて大樽の丘に皿山宗廟八幡宮を建立した際、李参平と直茂を合わせてまつりました。
◇明治になってから焼き物にふさわしい陶山神社と名乗ることになり、1880年(明治13)、社殿を建てかえました。正面の扁額は有名な書家、中林五竹のものです。10月17日には各区順番でお祭りをすることになりました。1887年(明治20)、赤絵町が今右衛門窯で焼いた磁器の狛犬一対を、翌年、稗古場は岩尾久吉が製造した焼き物の大鳥居を寄進しました。次の登板になった中ノ原は、当時名工とうたわれた井手金作、小山直次郎、川浪喜作の合作になる大水がめを寄進します。百年前のことです。
◇日本一の焼き物の鳥居は1956年(昭和31)の台風で上部が飛び、4年後に補修されました。また1917年(大正6)には陶山神社背後の蓮華石山の頂上に李参平の記念碑が建てられました。毎年5月4日には「陶祖祭」が営まれています。記念碑には李参平の出生からのことが刻まれていますが、その出生地などについて日韓双方で調査を続けています。
(松本源次)

9.皿山の昔の暮らしは?

9.皿山の昔の暮らしは? 札の辻

◇江戸時代には領民や旅人たちに法(きまり)を知らせるために人の出入りの多いとことに札(掲示板)を立てました。有田皿山では、いまの佐賀銀行有田支店付近にそれが立っていました。そこは、陶山神社から現在の有田小学校の入り口付近にあった皿山代官所へ行く道と、泉山から岩谷川内へ通じる街道の交わるところで、辻といいます。札が立っていたことから「札の辻」といわれるようになりました。みなさんが家から小学校に行くまでのバスの停留所には、付近の地名が書いてあります。ふだんなにげなく使う地名にも、昔からいわれがあることがわかります。
◇では札の辻にはどのようなきまりが書いてあったのでしょうか。領民の日常における心得にはじまり、キリシタン禁制や銭の交換レートの禁止、職人などの申し合わせにある賃金引き上げの禁止など、その時々の内容が書かれていました。そのころは文字が読めない人もいましたので、藩からの達しは住民を場所ごとに集めて、役人や庄屋らが読んで聞かせました。5人以上集まって酒食をする時は役所に届けること、法事の時の揚げ供養といって寺で酒食を出すことを禁止する、などが告げられました。
◇そのころ農業を営む者が街道ぞいで物を売ることは許されませんでしたが、皿山で「うどん屋」を開くことは許されました。本幸平山の栄吉という人が、1805年(文化2)に届けを出して許されています。菓子類で販売できたのは、あめ・おこし・らくがん・黒砂糖せんべい・いっこうこうなどで、白砂糖入りの菓子を売ることはできませんでした。また、藩の達しは家庭教育まで及び、皿山では子供まで日雇いの仕事があるが、それで得た賃金は自分勝手に使ってはいけない、そのつど親に渡すように指示しています。
◇衣服については、有田地方は農村と違って流行に敏感だったらしく、衣類の商いについて、たびたび禁令が出ています。
(金岩昭夫)

8.有田焼の特色は?

8.有田焼の特色は? 有田陶磁美術館

◇有田の磁器は1616年(元和2)、朝鮮半島から渡って来た陶工の李参平が、泉山で磁器の原料となる陶石を見つけ、白川の天狗谷窯で焼き上げたことに始まるといわれます。その後1640年代になると、南川良山の酒井田柿右衛門によって色絵の技法もはじめられ、佐賀藩の保護のもとで産地としての体制をととのえ、海外への輸出も盛んになりました。
◇この有田陶磁美術館には、有田皿山や周辺で焼かれた陶器や磁器などの古陶磁から、明治時代のものまで展示してあります。1954年(昭和29)に開館しましたが、建物は明治初期の石倉で、焼き物の製品倉庫として使われていたものです。中に入ると、磁器づくりにはげむ職人たちを描いた「染付有田職人尽し絵図大皿」「赤絵狛犬」(ともに佐賀県重要文化財指定)をはじめ、遠くヨーロッパまで輸出された「染錦桐鳳凰文蓋付壺」など有田焼の名品の数々を見ることが出来ます。
◇長い歴史のなかで完成された有田焼は、一般的に古伊万里・柿右衛門・鍋島藩窯の3様式に分けられます。
◇古伊万里様式は、伊万里の港から船積みされたのでこの名があります。朝鮮や中国の影響ではじまった有田焼は、中国の磁器とかわらないものが出来るようになり、染付・染錦・金爛手などとよばれる焼き物が作られました。これらの品物はオランダ東印度会社によって、ヨーロッパへ大量に輸出されました。柿右衛門様式は、日本画的な構図や、乳白色の濁手の技法は独特の美しさで海外にも広く影響をあたえ、その伝統技法は国の重要無形文化財に指定されています。もう一つの鍋島藩窯様式は、藩主が使う食器や、大名、幕府への献上品としてつくられました。青味がかった磁肌に描かれた染付や色絵文様は格調高く気品にあふれ、国の重要無形文化財に指定されています。
(百田節子)

7.この地蔵に何かいわれが?

7.この地蔵に何かいわれが? 三空庵広場・大地蔵

◇上幸平と大樽の境に「三空庵広場」とよばれる所があります。広場の中央にイチョウの木があり、その近くにお寺の出張所みたいな庵が建っています。江戸時代には、広場の西側の山手、つまり大樽寄りにあったそうです。このため、実際の「三空庵広場」とはイチョウの木より大樽側をいい、上幸平側を「地蔵さん」とよんでいました。
◇「地蔵さん」とよばれていたわけは、今も地蔵菩薩立像が安置されているお堂が残っているからです。像は高さが191.5センチメートル。素材はヒノキ。江戸時代前期に彫られたものらしく、背中に1825年(文政8)に京都の大仏師が色をぬったと記されています。
◇実は、この仏像こそ有田の歴史の中で最大の惨事と語りつがれている「文政の大火」の生き?証人といえます。1828年(文政11)8月9日におきた大火災は、岩谷川内から泉山にかけた一帯のほとんどを焼き尽くし、死者は50人とも100人を超えたともいわれています。
◇岩谷川内から出火した火は折からの強風にあおられて、有田皿山の家並みを次から次へと燃やしていきます。その火の手が大樽から上幸平へと移ったとき、ある信者がこの大地蔵を非難させようとしました。ところが重くて動かせません。そこで「地蔵さん、かるうて逃ぐっけん(背負って逃げますから)、軽るうなってくんさい(軽くなってください)」といいました。すると背中の大地蔵はすーっと軽くなり、信者は背負って逃げることができた ― と伝えられています。実際に大地蔵の下部には、この時のものと思われる焼きこげの跡が残っています。さらに大地蔵の背に、「文政十一年八月九日の子の刻あたり、激しい風雨の中で大火となったので、徳三郎が駆けつけ屋敷に運んだ」と記されていることが最近の調査で分かりました。
(吉島幹夫)