(事務局よりお知らせ)第24回実行委員会の報告について

平成29年3月1日に、第24回日本磁器誕生・有田焼創業400年事業実行委員会を開催いたしました。 事務局から提出した議案の全てが承認され、当実行委員会は、平成29年3月31日をもって、解散することとなりました。 これまで多くの皆さまから、たくさんのご協力をいただきました。 まことにありがとうございました。 401年からの有田へも、変わらぬご支援を、どうぞよろしくお願いいたします。

http://arita400.com/img_2221/

(事務局からのお知らせ) 3月1日に、日本磁器誕生・有田焼創業400年事業実行委員会が開催されます。

第24回 日本磁器誕生・有田焼創業400年事業実行委員会

日時 平成29年3月1日 (水) 9:30~
場所 大有田焼会館3階 講堂

会議次第
 ・委員長あいさつ
・協議事項
・その他

※傍聴可能(20名予定)
お問合せは 有田町 有田焼創業400年事業推進課(0955-25-9340)まで

(イベント)鹿児島山形屋にて「400年有田の魅力展」が開催されます。

「400年 有田の魅力展」が開催されます。 会期:平成29年2月16日(木)~22(水) 会場:山形屋(鹿児島) 《第一会場》2号館6階文化ホール 《第二会場》2号館5階特別会場 ※2月18日(土)午後2時からは、「有田皿踊り」も予定されています。 ぜひお越しください。

36.有田焼はどれ位できるの?

36.有田焼はどれ位できるの?
有田町役場

◇有田町では、働く人の多くが焼き物にかかわっています。焼き物をつくる人、焼き物を運ぶ人、焼き物を売る人、その仕事はさまざまです。
◇有田町の焼き物製造業の出荷額は年間約三百二十二億円(平成三年度)です。有田用内の製造業の総出荷額は約三百七十八億円ですので、焼き物はその八五パーセントをしめていることになります。この数字だけでも、焼き物が有田町のイメージであるだけではなく、町民の暮らしを支えていることがわかります。
◇ひとくちに焼き物といっても、色々な種類があります。ここでは用途によって①和用食器、茶道具などの食卓磁器②置き物、美術品などの装飾磁器③タイルなどの建築用磁器④電気・工業用磁器の四種類に分けてみます。食卓磁器が焼き物の出荷額の四八パーセントを占めて一位。つづいて建築用磁器の三〇パーセント。伝統に支えられている有田焼ですが、時代の注文にこたえ、新しい分野を切りひらいていかなければならないということでしょう。
◇種類別の出荷額を事業所の数で割ってみます。建築用磁器の約二十三億七千万円が筆頭。電気・工業用磁器の約三億三千万円が次ぎます。これらの製品は、近代的な機械を入れてたくさんつくることができるからでしょう。もちろん、近代化は食卓磁器や装飾磁器を含めた有田焼全体についてもいえることで、これからも進められていくでしょう。伝統的な美術工芸品ばかりが有田焼を支えてきたのではありません。親しみやすく良い食器類を消費者に提供してきたことも有田焼の歴史なのです。
◇最後に海外への輸出高ですが、出荷額の約五パーセントです。江戸時代には東南アジアから遠くはヨーロッパまで輸出され、あちらの焼き物産業に大きな影響を与えました。その伝統は今も生きています。

(野上建紀) 

35.焼き物にたずさわる人数は?

35.焼き物にたずさわる人数は?
有田町役場

◇有田町では、全人口一万三千八百二十六人(一九九〇年十月一日現在※合併前)の約五三パーセントに当たる七千三百七十六人が職業についています。うち千四百六十一人が昼間は町外へ働きに出ています。一方、昼間は三千九百六十七人が西有田町、山内町など周辺市町から有田町に働きに来ています。これから計算しますと、有田町では、昼間人口の五八パーセントのやく九千九百人が働いていることになります。
◇ 有田町には、三百四軒の製造業を営む事業所があります。その中の約八三パーセントの二百五十一事業所が窯業関係で、ここでの昼間の就業者は約三七パーセントの三千六百四十八人となっています。
◇これらの事業者は、従業員が一人の小さなものから三百人以上の工場までさまざまで、窯元とよばれる事業所もふくまれています。

(田代文博) 

34.有田皿山の山と川は?

34.有田皿山の山と川は?
有田町役場

◇有田町(旧有田町)は山に囲まれた谷あいの町です。そして、町中を流れる有田川といくつかの支流にそって家並が続いています。そのため平地の面積は町の総面積の三十パーセントに過ぎません。
◇佐賀県の西部にある有田町は、総人口一万三千八百二十六人(一九九〇年十月一日現在)、面積二六.七四平方キロメートル。決して大きな町ではありません。空から見下ろしてみると、方々に窯場の煙突が見られ、旧国道ぞいには商家の軒瓦と窯場がつらなっています。焼き物こそ有田町の顔なのです。
◇つぎに町中から 周囲を見上げてみましょう。町の北の端には黒髪山(五一八メートル)がそびえ、その山を中心とした黒髪山系の姿はたいへん印象的です。標高こそ高くありませんが、長い年月にわたる浸食作用のため、渓谷は複雑にきざまれ、切り立った岩がつらなっています。また、神六山(四四七メートル)、原明岳(三二〇メートル)、金山岳(三五二メートル)、蓮花石山(三四九メートル)、英山(二八二メートル)など山々は、新緑や紅葉で化粧して私たちに四季を教えてくれます。
◇そうした山々の四季を映す有田川は、戸杓川、上南川原川、黒牟田川、丸尾川、中樽川、白川などの支流を束ねて町中を走ります。そして、かつて有田焼を全国へ海外へ運び出す港であった伊万里湾へと今も水を運んでいるのです。豊かな自然と四季。その中に抱かれて、磁器のふるさとは生命を長らえることが出来ました。
◇約四百年前まで有田町は名もない集落でした。それが国内で初めて磁器を焼き始めてから、その名を広く海外にまで知られるようになりました。
◇もし有田町が磁器と出会わなかったら、今も名のない顔のない町でしたでしょう。

(野上建紀)

(イベント)有田焼のスペシャリストによるトークショーが開催されます。

※有田焼の歴史のスペシャリストによるトークをお楽しみ頂けるイベントが開催されます。

日時:平成28年11月23日(水・祝)
      11:00~12:00 (終了時間は変動する場合がございます。)
講師: 有田町歴史民俗資料館 館長 尾﨑葉子氏
会場: 佐賀県陶磁器工業協同組合 1階 
電話: 0955-25-9340 有田焼創業400年事業事務局 
※このイベントは、先着20名様(要予約)限りとさせていただきます。 

有田焼にまつわるお話をサロン形式でお楽しみ頂ける催しです。

 

(イベント)池袋東武にて「400年有田の魅力展」が開催されます。 

「400年 有田の魅力展」が開催されます。

会期:平成28年6月23日(木)~28(火)
※6月28日(木)は午後5時閉場
会場: 東武百貨店 池袋店 8階 催事場 池袋東武HP

※6月25日(土)8階スカイデッキ広場では「有田皿踊り」も予定されています。(雨天時は中止されます)
その他のイベント情報など、詳しくは チラシ表 チラシ裏 をご覧ください。

(事務局からのお知らせ)日本磁器誕生・有田焼創業400年事業実行委員会が開催されます。

第21回 日本磁器誕生・有田焼創業400年事業実行委員会

日時 平成28年 5月25日 (水) 15:00~
場所 大有田焼会館3階 講堂

会議次第
1.委員長あいさつ
2.協議事項
3.その他

※傍聴可能(20名予定)
お問合せは 有田町 有田焼創業400年事業推進課(0955-25-9340)まで

(事務局からのお知らせ)やる気モリモリ支援事業の新規募集を募集します。

平成28年度上期の「やる気モリモリ事業」を募集します。
募集するのは、平成28年9月30日までに実施される事業です。

応募期限は、平成28年3月31日までです。

詳しくは「平成28年度上期実施事業の募集について」をご参照ください。

33.有田で金もとれたの?

33.有田で金もとれたの?
古木場金山跡

◇有田中部の古木場地区は、 江戸時代の寛永年間(1624~1644)、金山として大変なにぎわいを見せていました。1627年(寛永4)に肥前国をさぐりに来た幕府隠密の報告書には、有田の磁器については何も記されておらず、金山についての記事が中心になっています。当時、幕府は金銀の鉱山の開発に強い関心があって、隠密も金山の調査に重点を置いたものと思われます。その報告書によりますと、有田金山は1625年(寛永2)の12月から掘り始められ、翌年の3月には均衡を掘りあてて、一時は6、7千人の人が入りこんでいたと伝えられています。
◇この金山は露天掘りではなく 、坑口から坑道(“まぶ”という)を掘り進んで行く“まぶ山”とよばれました。まぶの数は60ばかりあったものの、実際に金鉱(くさり)を掘りあてたのは2つほどであったと記されています。しかし鉱脈が貧弱だったと見えて、まもなく金がとれなくなって山はさびれました。隠密が有田に来た1627年2月ごろは、人家が5百から7百軒。そのうち30軒ほどは商家で、町並みは城下町のようにみごとであったと書いています。隠密が「金がとれなくなった山に何で住んでいるのか」と尋ねますと、米などの借りがあって、出入りを監視している口屋番所を出られないまま居ついていると答えています。金鉱石が流出するのを防ぐため、金山の周囲約12キロには柵がめぐらされ、口屋以外から物を買うことも禁じられていた様子がうかがえます。
◇初代佐賀藩鍋島勝茂の年代記にも有田金山の記事があります。それによると、1625年の4月から5月までに人夫百人で金108匁(1匁は3.75グラム)を掘り出し、あくる10月までに金1貫523匁(1貫は千匁)を産出しています。この年から2、3年掘り続けたものの、経費ばかりかかって金はさほど出なくなったため、1627年の終わりごろには廃坑となったものと考えられます。

(吉永 登)  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

32.荷造りと運ぶ方法は?

32.荷造りと運ぶ方法は?
戸矢番所跡

◇ 有田で作られた焼き物は、まず伊万里へ運ばれ、そこから船に積まれて日本各地へ送られていきました。そのため、有田焼は積み出し港の名前をつけて「伊万里焼」とよばれていました。
◇焼き物を運ぶためには荷造りをしなければなりません。昔は稲わらを使って荷造りをしていました。皿や茶わんや花びんなど、色々な形の物を荷造りするには専門の技術がいりました。 荷造りを職業にする人たちを荷仕(にし)とよんでいました。荷造りされた焼き物は、昔は人が「てんびん棒」でかついだり、または牛や馬の背にのせて伊万里まで運びました。1897年(明治30)に佐世保線が開通し、翌年に伊万里線(現在の松浦鉄道)が開通すると、焼き物は有田から直接鉄道で運ばれるようになりました。1950年代(昭和25~30年代)にダンボール箱が普及しました。荷造りはだれでもできるようになり、荷仕の仕事はなくなりました。荷を運ぶにも、主にトラックが使われるようになりました。
◇ところで有田焼は、江戸時代にはさかんにヨーロッパに輸出されていましたが、その窓口になったのは長崎の出島にあるオランダ商館でした。有田から長崎まで焼き物を運ぶには3つのルート(道すじ)がありました。
◇第1は、有田から伊万里へ運び、そこから船で長崎まで運ぶルート。第2は有田から嬉野へ出て、そこから長崎街道を長崎へ運ぶ陸上のルート。第3は有田から波佐見を通って川棚へ出て、そこから船で大村湾を渡るルート。このうち第3のルートは、途中に戸矢番所がありました。 戸矢番所は佐賀藩と大村藩の藩境を警備する番所で、そこには佐賀藩の役人が駐在していて、通行人や品物をきびしく検査しました。人は通行手形(パスポート)がなければ通れなかったし、品物は許可証がなければ取りあげられてしまいました。

(宮田幸太郎)

(イベント)福岡三越にて「400年有田の魅力展」が開催されます。

「400年 有田の魅力展」が開催されます。

会期:平成28年3月9日(水)~14(月)
※3月14日(水)は午後5時終了
会場: 福岡三越 9階 「三越ギャラリー」 福岡三越HP

その他、8階=特選和食器では「有田焼上絵付けワークショップ」などのイベントも企画されております。
参加費用など詳しくは チラシ(PDF)をご覧ください。

30.職人にはどんな職種が?

30.職人にはどんな職種が?
佐賀県立有田窯業大学校

◇ 有田陶磁美術館に「染付有田皿山職人尽し絵図大皿」があります。江戸後期の作で、大樽の文人画家江副琴岳の筆になるともいわれ、県重要文化財(歴史資料)に指定されています。
◇この大皿に、江戸時代の有田皿山で働く人びとの姿が、いきいきと描かれています。当時の有田焼の作り方や製作工程、また働く人びとの姿をみることができます。 職人たちの楽しい会話も聞こえるようにさえ思えます。
◇有田焼の製作工程は、昔から、分業化されており、それぞれの工程で、専門の職人が、その技術を発揮して、それらがひとつになって焼き物がつくられてきました。
◇この大皿の絵をみると、泉山石場で原石を掘る人、唐臼小屋に運び粉砕する人、水簸などで陶土をつくる人、細工場(さいくば)で形をつくる人、石臼で呉須を摺る人、絵付けをする人、うわぐすりをかける人、窯をたく人、薪を準備する人、選別をする人など、さまざまな仕事をする人が集まり、みんなで、ひとつの焼き物をつくりあげます。
◇ 焼き物をつくる人の中でも、中心になるのは、やはり、細工人(さいくにん)でしょう。細工場に入ると車つぼの中で、蹴ロクロをつかって形をつくる人を中心に、土をこねたり、運んだりする荒仕子(あらしこ)といわれるお手伝いをする人も働いています。ロクロでは出来ない形を型に打ちつけて成形する型打ちの職人もいます。また、素焼きに絵付けする絵描きさんも重要な職人です。絵描き座では、素焼に呉須で染付をします。りんかくの線がきをするのは男の人で、絵描きさんと呼ばれ、そのりんかく線の中を有田特有の大きな濃筆で塗りこんでいくのは、女の人で、だみ手さんと呼ばれています。
◇ 基本的には、この伝統的な技法は現代も受け継がれています。焼き物をつくる人びとはその技術を身につけ、新しい感覚で、それぞれの分野で力いっぱい仕事をし、現代の美しい有田焼をつくります。

(古屋 伸二)

(イベント)阪急うめだ本店にて「400年有田の魅力展」が開催されます。

「400年 有田の魅力展」が開催されます。

会期:平成28年2月24日(水)~29(月)
※2月24日(水)は午後5時終了 催し最終日は午後6時終了
会場:阪急うめだ本店9階(大阪市) 阪急うめだ本店HP
阪急うめだギャラリー アートステージ

詳しくは パンフレット(PDF)をご覧ください。

29.あとつぎは育っているの?

29.あとつぎは育っているの?

佐賀県立有田窯業大学校

◇近年、全国の伝統工芸の産地では、すぐれた技術をもったあとつぎが少なくなり、その養成がいそがれています。
◇ 江戸時代から藩の保護により、各地でその土地の素材を生かした特産品として、色々な生活用具や工芸品が作られました。明治新政府になっても、国を豊かにし外国との貿易をさかんにするために、産業や伝統工芸などが奨励されました。そのために日本は昔から、すぐれた伝統工芸の国として外国にも知られてきました。しかし1900年代から産業革命が進んで機械化が取り入れられると、機械でたくさん作ることに力がそそがれ、手仕事による長い年月をかけた技術を身につける人が少なくなりました。とくに1960年代後半(昭和40年代)から日本は高度成長の時代にはいり、地方の若い人達は都会へ出て大企業につとめ、郷里にのこって伝統的な仕事をするあとつぎが減りました。
◇有田も事情は同じでした。そこで、あとつぎの養成には特に力を入れてきました。1881年(明治14)に陶器工芸学校の「勉脩学舎」が設立されてから今日まで、有田徒弟学校、有田工業学校、有田工業高等学校が、さらに新しい時代の人材を養成するため、1985年(昭和60)に陶磁器専修学校である佐賀県立有田窯業大学校が開校しました。有田町や、町内陶磁器業界、近隣の市町、業界が一体になって設立委員会をつくり、苦労のすえ実現にこぎつけたものです。陶磁器科2年制と研究科1年制からなり、デザイン・釉薬・絵具・焼成など、新しい陶磁器を作るのに必要な知識と技術を身につけてもらいます。学生達は県内ばかりではなく日本各地に及び、外国からの留学生もまじって、明日の陶磁器界を担うべく実験や実習にいそしんでいます。2つの科のほか、短期研修制度として、ロクロ研修1年、下絵付研修6か月、上絵付研修6か月のコースがあり、伝統的な有田陶磁器生産の技能者が育っています。

(井手誠二郎)
※2016年4月より佐賀大学へ移行します。→佐賀県立有田窯業大学校HP

28.ニューセラミックスとは?

28.ニューセラミックスとは? 佐賀県窯業試験場

◇粘土などの原料を高温で焼いた製品のことをセラミックスといいます。で、ニューセラミックスとは、新しい焼き物という意味です。約400年前、日本で最初の時期がつくられたころの有田では、磁器がニューセラミックスだったといえます。
◇現在でいうニューセラミックスとは、原料を人工的に純粋な状態で製造し、成形から焼成、仕上げまで、厳しく管理されて生産される焼き物のことをいいます。
◇ニューセラミックスで色々な製品がつくられていますが、身近な製品では、包丁やハサミのような刃物があります。ニューセラミックスの刃物は、主にジルコニアという原料を使用します。 この原料の一つの粒は、約1万分の3mm程度に小さく粉砕されています。この原料をプレスという成形機で、高い圧力をかけて刃物の形に成形し、1500℃から1600℃の高温で焼き上げます。焼き上がった板は、非常に強いもので、普通の焼き物の20倍から30倍の強度を持っています。しかし、このままでは切れませんので、つぎに、ダイヤモンドを使って少しずつけずって、刃立てをして刃物にするのです。硬い、さびない、というニューセラミックスの特徴をいかした製品の一つです。
◇他の例として、コンピューターにもニューセラミックスが使われています。シリコン材料の電気を通したり通さなかったりする性質を利用し、セラミックスの電気的特性をいかしたものです。
◇このほかにも、磁力をもったセラミックス、光を通すセラミックス、人間の骨に似たセラミックスなど、多くの例があります。
◇有田でも10年ほど前から、県窯業試験場などで研究がはじめられ、1300℃から1500℃で使われる高温材料や金属に代わる強度の強い材料などがつくられています。今後の発展が期待されます。県窯業試験場ではニューセラミックスだけではなく、窯業に関する全般の研究、試験、指導が行われています。

(古屋伸二)

27.焼き物を作る順番は?

焼き物を作る順番は? 佐賀県窯業試験場

◇焼き物は土や石などの原料を形にして、それを焼いて作るものです。形が出来上がるまでいくつもの工程を通ります。それは遠い昔の縄文式土器であっても現代のニューセラミックスであっても変わりありません。磁器である有田焼もそうで、文様(もんよう)をつけたり、釉をかけたり、色絵を描いたりする工程が加えられています。それでは、白磁、染付、青磁などの工程を追ってみましょう。
①採石 有田焼の原料は陶石と呼ばれる石です。有田焼は泉山という所で陶石が見つかってから始まりましたが、今では天草産の陶石が多く使われています。採掘された陶石はハンマーでくだかれ、いくつかの等級に選り分けられます。
②成土 石のままでは形をつくれないので、クラッシャーという機械でくだき、さらにスタンパーという機械で細かい粉にします。その粉に水を加えて適当な堅さの陶土をつくります。
③土こね 次に陶土をよくこねます。陶土の中の粒にむらがあったり、空気の泡があったりすると、焼いた時に割れてしまったり、ゆがんでしまうからです。
④成形 形や大きさに合わせていろいろな 方法を使いますが、回転するロクロの上に陶土をのせて形をつくっていく方法がふつうです。
⑤素焼 ゆっくりと乾かした器をまず低い温度(約900℃)で焼きます。
⑥下絵付 染付という青色の文様はこの工程で描かれます。素焼された器の表面に呉須(あい色の絵具)などで描きます。
⑦施釉 器の表面をガラス質でおおうために釉薬を一面にむらなくかけます。
⑧本焼 ガスなどの燃料を使って、器を約1300℃の高温で焼き上げます。色絵磁器などはさらに上絵付・上絵付焼成の工程が続きます。

(野上建紀)

26.磁器と陶器はどう違うの?

磁器と陶器はどう違うの? 九州陶磁文化館

◇私たちは陶器の花びんや磁器の皿などをふだん何げなく使っています。このような陶器や磁器にはどのような違いがあるのでしょうか?九州陶磁文化館の展示室の最初のところに「やきものの分類」という展示コーナーがあり、土器、陶器、炻器、磁器の四つに分けて、それぞれの作る時の条件や見分けかたを説明しています。

 
  土 器 陶 器 炻 器 磁 器
つくるときの
条件  
素地の原料 有色粘土 有色粘土 有色粘土 白色粘土-長石-珪石、
陶石
釉 薬 な し あ り な し
または
あ り
あ り
焼成温度 800℃前後 1000~
1300℃
1200~
1300℃
1300~
1400℃
見分けかた    素地の色 有 色 有 色 有 色 白 色
素地の透光性 な し な し な し あ り
素地の吸水性 あ り あ り な し な し
 たたいた時の音  にぶい音 にごった音 かたい音 すんだ金属音

◇このほか、化学薬品に強いものなど、特殊な性質や特色をもった焼き物がたくさんあり、ナイフや包丁や自動車のエンジンまで、いろいろなものに利用されています。
◇佐賀県立九州陶磁文化館は1980年(昭和55)に開館した焼き物専門の美術館です。
◇この館のしごとは大きく四つあります。
○四つの展示室を使った展示活動
○焼き物と焼き物に関する資料を集める収集活動
○焼き物の歴史や産業との関わりなどを調べる調査研究活動
○講演会、映写会、陶芸教室などの教育普及活動
◇また館の中には、焼き物を大切にしまっておく収蔵庫、焼き物の形をつくるロクロ室などの陶芸教室、講堂などがあります。常設展示室には101点の古伊万里(蒲原コレクション)があり、見学者の目をひいています。(※古伊万里の展示数は1989年9月1日時点)

(宇治 章)

 

 

 

 

31.技術を身につけるには?

31.技術を身につけるには?
佐賀県立有田工業高等学校

◇焼き物の技術を身につけるには、 ふつう少なくとも十年はかかるといわれています。江戸時代には現在のような学校がなく、絵描きさんや窯焼きに弟子入りして勉強しました。絵描きの修行には特に年期の定めはなく、自宅から絵描き座へ通いました。ろくろなどの細工習いは、7年くらい窯焼きの家に奉公して修行しました。最初の2,3年は小使いと手伝いばかりで、めったに車壺(ロクロ場)へは入れませんでした。年期を終えると1年間お礼勤めをし、8年目にやっと一人前の細工人として賃金がもらえるようになりました。
◇明治の新しい時代を迎えると、有田皿山でもいろいろな改革が行われました。白川小学校長の江越礼太は、有田焼の後継者養成のために、 1881年(明治14)日本で最初の陶器工芸学校「勉脩学舎」を白川に作りました。1895年(明治28)になると、西松浦郡の1町4か村の組合立有田徒弟学校ができ、京都などから有名な先生を迎えて教育をしました。費用には泉山磁石場の純益金と県や国の補助金をあてました。
◇1900年(明治33)、当時の町長横尾謙や町内有志の努力によって、 佐賀県立佐賀工業学校有田分校が泉山にできました。4年生の図案、製陶科などをもつ学校でした。1903年(明治36)独立して佐賀県立有田工業学校となり、全国から陶磁器、図案絵画の先生を迎え、生徒も九州全域、四国、中国地方から集まりました。卒業生のなかから江副孫右衛門、12代中里太郎右衛門、12代今泉今右衛門、13代酒井田柿右衛門ら日本陶業界をリードした多くの人材を送り出しています。1948年(昭和23)、第二次世界大戦後の学制改革により、佐賀県立有田工業高等学校(窯業・デザイン・工業化学・電気・機械科)となりました。卒業生は全国の陶磁器業界や陶芸界などで活躍しています。また1989年(平成元)には新しく陶磁器コースが作られました。

(井手 誠二郎)

25.伝統的な焼き物の工程は?

25.伝統的な焼き物の工程は? 九州陶磁文化館

◇焼き物を大きく分けると陶器と磁器になります。例えば唐津焼は陶器、有田焼は磁器です。陶器は粘土か土を使いますが、磁器を作るにはまず陶石から陶土をつくらなければなりません。陶石を金槌で粗砕きをしてよく乾燥させ、これを唐臼(からうす)で長時間粉砕します。白い粉になったものを大きな樽やタンクに水と一緒に混ぜ合わせ、攪拌します。白い濁り水になったところを別の樽にくみとり、沈殿させます。この作業を土漉、または水簸(すいひ)といいます。二、三日たって上澄みを静かに捨てると白い沈殿物が出来ます。これが陶土で、これを素焼鉢や匣鉢(さやばち)に移して水分をぬき、成形に必要な硬さにします。
◇次に器物を作る工程に入りますが、その準備として土踏みをします。これは陶土の中に含まれる空気をぬくためと、硬軟入りまじっている粘土を均一にするためのものです。この土をロクロの上に置き、形をつくります。この作業を細工といい、ロクロ細工と型細工があります。細工を職業とする人が細工人で、有田では「シャークニン」とよびます。
◇形をつくったあと、製品を二、三日乾燥させ、削りカンナで仕上げをします。その後、水ふき仕上げで素地の表面をなめらかにします。摂氏850度位で素焼をします。
◇素焼の製品の上に、呉須(ごす)という絵具を使って絵をかきます。呉須に水を加え、引き臼ですりつぶして絵付けをすることを線がきと濃(だみ)といいます。
◇下絵付が終わったら釉かけをします。この釉は長石・硅石に石灰分を調合します。石灰分は柞灰(いすはい)、土灰などを調合したものです。ウワグスリともいいます。
◇施釉が終わったら本焼するため、窯詰めします。今はガス窯がほとんどですが、登り窯の頃は窯焚きが全責任を持ちました。本焼の温度は1300度~1500度位。
◇上絵をつけるときはさらに本焼した製品に絵付けをします。このように、すべての工程が分業で行われていて一つの焼き物が出き上がるまでには多くの人の手を経てきました。

(広尾 甫)

24.焼き物を生む前の有田は?

24.焼き物を生む前の有田は? 小溝・清六

◇1605年(慶長10)から10年(同15)ごろに作られた「慶長年中肥前国絵図」という地図を見ますと、現在の有田町の地域は旧曲川村(現在の西有田町)の一部に入っていて、外尾・すがの・ふるこば・境野・戸矢・大野などの地名はありますが、上有田地区の地名は書かれていません。言い伝えによりますと、かつての上有田地区には農家が数軒あって、土地の人は「田中村」とよんでいたそうです。
◇西有田町は、かつての曲川、大木、山谷の三村が一つになったものですが、その山谷村の牧地区に唐船城があり、有田氏が館をかまえて有田郷を支配していました。十一世紀の中ごろ(1050年ごろ)、松浦地方(佐賀・長崎両県の一部)を支配するため、京都から移ってきた源氏の一族があり、松浦党とよばれていましたが、その一つが有田氏です。1577年(天正5)、有田氏は佐賀の龍造寺氏の部下になりました。さらに龍造寺氏のあとを引きついだ鍋島氏は、有田氏を佐賀方面へ移住させ、有田郷と伊万里郷を直接治めることにして、大木村に代官所を置きました。
◇有田、西有田両町を有田川が流れています。その流域では、人々は農業で暮らしをたてていましたが、1500年代の終わりごろから清六や小溝あたりでは農業のかたわら陶器を焼くようになりました。陶器を焼く技術は唐津方面から伝えられたもので、清六や小溝で焼かれた焼き物は唐津焼です。ところが1616年(元和2)、泉山で磁器の原料となる陶石が発見されると、たちまちのうちに磁器製造がさかんになり、多くの人が集まってきて磁器を焼きはじめ、窯にたく薪にするため山の木を切り荒らしました。そこで佐賀藩は、1637年(寛永14)に窯焼きの資格と窯を焼く場所を定め、それ以外の人や場所では焼き物を作ることを禁止しました。その結果、焼き物生産の中心は旧有田町となり、代官所も有田町白川に置かれました。

(宮田幸太郎)

(事務局よりお知らせ)有田皿踊りボランティアの追加募集を開始しました。

「有田皿踊りボランティア」の追加募集を開始しました。

有田焼創業400年の2016年に花を添えて頂く、「有田皿踊り」ボランティアを募集しています。
健康かつ意欲的な方で、町内にお住まいかお勤めの18歳以上。
ぜひ、ご応募ください。
詳しくは、 『皿踊り』について をご参照ください。