江戸時代の医療環境~水町昌庵先生を中心に

 過日、とあるグループの女性の方々と、旧西有田地区の史跡巡りをしました。明け方まで続いた雷雨に、散策は難しいかなと思っていたのですが、集合するころには青空も見えて、やっぱりこのご夫人方のパワーに雨雲も恐れをなしたのだと思ったところです。
 定番?の山田神社・唐船城から始まり、最後に竜泉寺境内に佇む水町昌庵先生の墓碑をお参りしました。

山田神社で

 さて、この水町昌庵先生、佐賀の中でも今では知っている方が少なくなってきましたが、嘉永2年(1849)11月、10代佐賀藩主・鍋島直正が江戸藩邸で長女の貢姫に種痘を施した際、藩医の伊東玄朴が処置する場面に立ち合っています。当時は死に至る病と恐れられた天然痘(疱瘡)に対する画期的な予防策であったのですが、その効果は未だ実験的な段階でもありました。

 以前、佐賀大学の青木歳幸先生が有田町公民館の講座で紹介されましたが、水町昌庵さんは藩の「医業免札姓名簿」の嘉永4年(1851)亥12月16日の所に、内科と口科(歯科?)の医者として名前が記載されています。

 ちなみに、同じく「医業免札姓名簿」には有田の医師の名前もあり、有田郷大木村の内外科・文禮、稗古場山の内科・祐哲、赤絵町の針科・養朴、岩谷川内山の内外科・省安、泉山の内科・玄仲、新村の外科・曹悦、上幸平山の内科・道雪(以上、嘉永6年)と、この狭い地域に多くの医者が存在したことがわかります。しかも、内科、外科、針科(鍼灸のことでしょうか)など多彩で、これらの医師たちが有田の人々の健康管理につとめていたことだと思います。

 面白いことに、時代は少し遡りますが、文化3,4年ごろ(1806~1897)、当時の皿山代官成富作兵衛が残した日記には「伊万里津は医者が少なく難渋していたが、長崎江戸町の外療医師・楢林泰助という者が伊万里津に百日の滞在申請をし、許可された」ことが記されています。当時の有田と伊万里では医療格差があったのかもしれませんね。 

 話は水町昌庵先生に戻ります。移住の時期もその理由もよくわかりませんが、旧西有田の大木宿で開業し、明治21年(1881)12月23日、76歳で亡くなっています。その墓碑が竜泉寺裏の墓地にあります。
 水町先生と柿右衛門家は縁戚関係があったそうで、以前は酒井田家からお墓の掃除に出かけていたとのことです。                                     (尾)

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