もう一つの東西の出会い

 メキシコの首都メキシコシティから2時間ほど車で走ったところにプエブラという街があります。

プエブラの町並み

 有田と同じくやきものの町です。街中の陶器店や露店には、明るいカラフルな陶器が並びます。

店先に並ぶプエブラ焼

 そもそもこのプエブラの製陶技術がどこから来たものかと言えば、その昔ヨーロッパから伝わった技術です。それではそのヨーロッパの技術がどこから来たかと言えば、さらに西の西アジアのイスラーム陶器の技術が伝わったものです。

 その歴史をひも解きますと、8世紀以降、イスラーム勢力がヨーロッパに進出した際に、イスラーム陶器の技術がヨーロッパに伝わりました。イベリア半島では長らくイスラーム王国が続き、現在、世界遺産となっているスペインのアルハンブラ宮殿などももともとはイスラーム王国の宮殿でした。当時の先進的な知識や技術をもったイスラーム教徒は多くの文化をヨーロッパに伝えました。製陶技術もその一つでした。その結果、ヨーロッパではマヨリカ陶器が生まれ、やがてデルフト焼などのファイアンス陶器を生み出します。
 続いて15~16世紀の大航海時代、コロンブスによるアメリカ大陸「発見」以後、スペイン人は大西洋を渡ってアメリカ大陸に進出していきました。そして、ヨーロッパの製陶技術をアメリカ大陸に伝えます。そうして生まれた焼き物がプエブラ焼です。つまり、プエブラ焼は西アジアから北アフリカ、ヨーロッパ、そして、大西洋を渡ってアメリカへ、西へ西へと伝わり、たどり着いた技術でできた焼き物です。

 一方、プエブラ焼の中でもひときわ目をひくのが白地に青で文様を描いた器です。16世紀以降、フィリピンのマニラとメキシコのアカプルコを往復するガレオン船によって、東洋の染付は大西洋とは反対側の太平洋を越えて、アメリカに渡ってきました。海を越えてもたらされた白地の青い文様の器をプエブラの陶工たちは盛んに模倣し、それを今に伝えています。もちろん、その東洋の染付には有田焼も含まれています。

 

メキシコシティ出土の有田焼(17世紀後半)

こうしてプエブラ焼は西の技術と東の意匠が融合した器を生み出しました。

 東西の文化交流と言えば、その主な舞台は陸のシルクロードであれば中央アジア、海のシルクロードであればインド洋世界でした。東アジアと西アジア、東洋と西洋がいつも向き合うような形で交流を重ねてきました。
 それらとは逆の方向、すなわち、東と西がそれぞれ背を向けるように文化を伝えながら、今度は地球の反対側のアメリカ大陸で東と西がまた出会ったというわけです。なかなか壮大な文化交流ではないでしょうか。そして、この交流の最後の一役を有田焼も担っていたと思うと嬉しくなります。

 大航海時代を経て、地球の果てがなくなり、名実ともに地球は「丸く」なりました。当時のメキシコを描写した詩には、次のように詠まれています。

「メキシコでスペインと中国が、イタリアと日本が一つになる。
やがて貿易と政治によって一つの世界になる。」

 大西洋と太平洋、二つの大洋を渡ってきた文化がメキシコで一つに融合する様子が謳われています。今、流行りのグローバル化の波を詠んだような詩ではありますが、西と東が融合したプエブラ焼の器もまたその象徴と言えます。(野)

資料館ホームページへ戻る

Share on Facebook
Bookmark this on Yahoo Bookmark

コメントは受け付けていません。