登り窯の構造

 肥前において、近世に用いられた本焼き用の窯は、すべて登り窯でした。焼成室ごとに所有者の異なる地区の共同窯で、一つの業者が1室から数室を所有していました。規模の大きい窯なので頻繁に焼成していたわけではなく、有田の場合江戸時代の個々の窯の記録はありませんが、18世紀後半の全窯場の年間の焼成回数と考えられる記録があり、それをその頃の窯場の数で割るとおおむね年間5、6回になります。これは波佐見の記録でも、17世紀末に9回、窯が大型化した19世紀前半では窯場により6回や3回などとあるため、有田でも似た状況であったものと思われます。有田には、「窯焼きは3代続かない」とか「ふがま(焼成を失敗すること)3回で窯焼きは潰れる」などの言葉もありますが、たしかに年に数回の焼成でふがまを出してしまうと、家が傾くようなこともあったに違いありません。

 この登り窯ですが、現代の窯のように工房内に設置されるものではなく、必ず山の斜面に築かれています。通常は、窯の片側が谷に面した場所が選ばれ、焼成の際に失敗した製品は、そのまま谷に捨てられます。この失敗品の堆積した谷を、“物原”と言います。

 登り窯の最下室は、“胴木間”と呼ばれます。この部屋は、窯を乾燥させたり、窯全体をゆっくりと温度上昇させるための燃焼室で、下端部に焚き口が設けられています。最初はここで燃料の薪が燃やされますが、通常は、製品は詰めません。焚き口は、江戸時代には一つでしたが、明治時代になると複数横に並べたものも見られるようになります。

 この胴木間より上の部屋が、製品を焼く焼成室として使われます。各焼成室には物原の位置する谷に接する片側に、出入り口(木口)が設けられます。ここから、製品の出し入れをしますが、焼成に失敗した製品は、そのまま隣接する谷に投棄するのです。また、この出入り口は、焼成の際には薪の投入口としても使用されます。“トンバイ”(耐火レンガ)一個分の穴を残して、トンバイや粘土で密閉し、その穴が薪の投入口となるのです。

 この各焼成室で窯を焚く工程には、1)ねらし焚き(あぶり焚き)、2)攻め焚き、3)あげ火があります。磁器は弱還元焰焼成されますが、これは投入する薪の量や頻度で調整します。たくさんの薪を一度に投入するほど窯内の酸素が欠乏し、還元状態になるのです。また、焼成は各部屋を同時に行うわけではなく、下の部屋から順に一部屋ずつ焚かれます。そのため、後に焚く上方の焼成室ほど温度上昇が緩やかで、たとえば、厚みのある大型製品を焼く時などに適しています。

 各焼成室の内部に目を移してみると、床面は、下室側に“火床(ひどこ)”が設けられ、上室側には“砂床(すなどこ)”があります。また、その火床と砂床の境には、両床を仕切るためにカマボコ状の粘土を連ねた“火床境(ひどこざかい)”が設けられます。火床は、その名のとおり、薪を投入して燃やす施設で、側面の出入り口の幅で造られます。その上室側で、焼成室の大半を占めるのが、製品を焼いた砂床です。床面に砂が敷かれているのがその名の由来ですが、これは、焼成時に窯道具などを並べた際に、熔融して床面とくっついてしまわないようにするためです。

 その他、焼成室の中で床面以外に設けられる施設としては、色見穴があります。当時は、現代のように温度計やゼーゲルコーンなど、温度を知るための道具がなかったため、色見穴から炎の色で温度を確認したり、製品の焼成具合を確かめたのです。

 また、各焼成室の奥壁には、“温座の巣(おんざのす)”と呼ばれる通焔孔が、横一列に並ぶように設けられていました。これは、立てた状態でほぼ等間隔に並べたトンバイの上に、横にしたトンバイを次々と渡して、方形の穴を造りだしたものです。焼成室内の熱や炎はこの温座の巣を通って、上の部屋へと伝わるわけです。

 こうして、温座の巣を通じて次々と上室へと伝わる熱や炎ですが、最後の窯尻ではどうなるのでしょうか。現代の登り窯の多くでは、窯尻の上部にさらに別途煙突が建てられ、そこに抜ける構造になっています。ところが、江戸時代の登り窯には煙突がありません。最上室も下室と同様に、奥壁の温座の巣からそのまま外界に熱や炎が排出されるのです。これは、現在の登り窯が2、3室と小規模なものが多いため、煙突を建てないとうまく熱や炎が上に引いてくれないからで、大規模で細長い江戸時代の窯は、窯自体が煙突の役割を果たすため必要なかったのです。

 こうした登り窯は、日本においては、肥前で誕生し普及したもので、従来の国内の窯と比べ熱効率も焼成できる量も格段に優れていました。そのため、その後、直接的、間接的に技術が伝播し、全国へと普及したものなのです。(村)

広瀬向窯跡
写真中央部を右下から左上方向に3号窯が登っており、その廃窯直後に築かれた2号窯が、隣接して写真奧側に並行して登っている。そのため、2号窯の焼成失敗品が3号窯の上に厚く堆積している。

登り窯の各部の名称
大橋康二『肥前陶磁』考古学ライブラリー55 ニュー・サイエンス社 1989より転載

『染付有田皿山職人尽し絵図大皿』(有田陶磁美術館蔵)に描かれた
登り窯の攻め焚き風景

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