登り窯の名称(後編)

 前回は、現在の窯跡の名称について、成立の経緯などいくつか紹介しました。引き続き、今回は、登り窯の操業当時の名称について触れてみたいと思います。とは言え、そんなに古い時代のことは分かりません。『皿山代官旧記覚書』などでは、個別の窯場については18世紀の記述も見られます。しかし、有田全体の窯場の名称が分かるのは、『皿山代官旧記覚書』の文化十一年(1814)の日記が最初です。
 これによると、操業当時の窯の名称は、地区の共同窯であるため、多くは「地区名+登」の組み合わせで呼ばれています。つまり、下白川窯跡の場合であれば“白川登”、窯の谷窯跡の場合は“応法登”という具合です。この日記では省略されていますが、窯場のある地域であることを示す“山”の名称を加え、“白川山登”や“応法山登”と呼ぶこともあります。

 このように地区に共同窯が一つの場合は単純なのですが、中には二つの登り窯が併存する場合もあります。たとえば、広瀬山の広瀬向窯跡と茂右衛門窯跡、黒牟田山の多々良の元窯跡と黒牟田新窯跡、泉山の年木谷3号窯跡と年木谷1号窯跡などです。こうした山の場合は、名称設定にはいくつかのパターンが見られます。
 最も一般的なのは、17世紀から続く地域の核となる窯場があり、18世紀後半以降新たに窯場が追加されるタイプです。この場合、旧来の窯場を“本登”、新設の窯場を“新登”として区別しています。つまり、広瀬山の場合だと、広瀬向窯跡が“広瀬山本登”、茂右衛門窯跡が“広瀬山新登”となります。黒牟田山や泉山なども同様です。
 ところが、そういう明確な新旧関係では分けられない場合もあります。そういう時には、かなり柔軟(?)に名称設定されているようです。たとえば、上幸平山から大樽山には、隣接して大樽窯跡、西登窯跡、前登窯跡などが築かれています。この場合は名称からも分かるように“西登”や“前登”などのように、相対的な位置を名称としています。ちなみに大樽窯跡は、当時は“東登”と呼ばれていました。

 さらに、本幸平山の場合は、ちょっと意味のよく分からない名称設定です。谷窯跡と白焼窯跡が同じ丘陵上に隣接していますが、それぞれ“谷登”、“白焼登”と称されています。“谷登”の方は、同じ丘陵の中央部には白焼窯跡が登っており、たしかに、谷窯跡はその西側の下がった谷側に登っているため、案外そのあたりが名称の由来かもしれません。一方、“白焼登”の“白焼”とは素焼きの意味だと思いますが、なぜそう呼ばれたのかは分かりません。素焼きが焼かれていたのでと言いたいところですが、発掘調査でちゃんと通常の製品が焼かれていたことが判明しています。

 このように、現在の名称も操業当時の名称も、緩やかな決まりはあるものの、全体的に統一されたルールで付されているわけではないのです。(村)

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