あるお産婆さんの記録②

 前回、古賀トヨさんは明治45年ごろに有田で産婆を開業されたと書きましたが、国内では明治32年に産婆規則と産婆名簿登録規則が発布されています。この時、初めて産婆(現在は助産師)に対する免許制度が確立し、職業としての資質水準が図られました。トヨさんの日記には有田町内、あるいは当時の有田村にいたお産婆さんの会合などもよく記録されていますが、トヨさんの他には、『肥前陶磁史考』の著者・中島浩氣さんの妻ワサさんもお産婆さんとして働き、家庭を顧みる事なく有田の歴史調査に没頭した夫を支えたそうです。

 日記の中に「産婆会」なるものが初めて登場するのは大正12年1月14日(晴れ)の日記です。伊万里であった産婆会に有田町から原さんと二人で出掛け、来会者は20余名で「梶山殿の実見談及び警察署長の話等あって、二時頃より新年宴会」とあります。会費は2円。同月18日の日記には中島ワサさんが来宅とあるので、ワサさんも当時から産婆家業をしていたと思われます。

 昭和2年8月16日(火)の日記には、「中島宅に行って、二人役場に行き、町長に合ってから…」という一文があります。何の目的かは日記にはありませんが、訪問された有田町役場にはその時のことが日誌が残っていました。そこには「中島・古賀両産婆来場、江越(米次郎・礼太次男)面接。本郡東部産婆会設置及び出産証明書の件」とあって、トヨさんたちが産婆会を結成したことが伺えます。その後、昭和3年3月9日の日記には郡産婆会が開催され、田中・中島・中山・池田さんらと共に5人で出かけています。その折に郡の中での分立について意見を交わしたが決まらなかったとあります。しかし同月25日付けの日記には有田村役場(現在の有田町本町にあった)に東部産婆会があるので中島さんらと行ったとありますので、無事、東部産婆会が設立したようです。

 このころの社会状況はというと、大正15年12月25日、大正天皇が48歳で崩御。天皇の死去から2時間後、26歳の裕仁皇太子が皇位継承のため践祚式を行い、そのあと若槻内閣によって新元号を「昭和」とすることが発表されています。つまり、昭和元年は12月25日~31日までの7日間という短さでした。古賀家でも喪章を作って子どもたちに付けさせ、国旗(半旗?)をたて、同27日の午後、子どもたちは礼服で遙拝式に行ったとあります。恐らく、町中が服喪一色で新年を迎えたのだろうと想像できます。   (尾)

 

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