あるお産婆さんの記録①

 高校・大学時代の先輩から、「有田でお産婆さんをしていた祖母が、亡くなる日までほとんど毎日日記をつけていた」という話を伺って興味を持ったのが、この日記に出あうきっかけでした。

 その日記を残したのは古賀トヨさん。明治24年生まれで、同45年ごろから有田でお産婆さんを開業し、72歳で現役を引退するまでにとりあげた赤ちゃんはナンと5000人!その功績で、平成2年、99歳の時に国際ソロプチミストのWHW賞(婦人が婦人を助ける賞)を受賞されました。
 今でも、お産に立ち合うために当時は珍しかった自転車で町じゅうを駆け巡っていたトヨさんの姿を覚えている方もいらっしゃいます。青木元町長ら有田のリーダーたちの誕生にも立ち合い、その産声を聞いたトヨさんです。

 お隣の市で病院を開業されている御子息のお宅には、大正12年から亡くなる直前まで書き綴られた日記が木箱に入れられ保存されています。日記と言うのは個人情報の最たるものではありますが、ご遺族から特別に許可をいただいて昭和20年までの日記を読ませていただきました。その日記はほぼ毎日休むことなく綴られ、それだけでも凄い!と思うのですが、内容がまた興味を惹くものでした。
 この日記の特徴として、全体的に自分の感情はあまり書かずに、その日にあったことや仕事であるお産関係の記録、あるいは買物をした記録(その当時の有田町内の商店や物価がよくわかります)などが書き綴られ、個人の日記というよりは有田皿山の庶民史の一面を物語る資料でもあると思います。

 職業婦人として、また、自身も多くの子の母としての人生も垣間見る事ができます。例えば、大正12年1月1日付けの日記には「朝風呂に皆で行き、雑煮で年をとってから静かに一日を遊んで(トヨさんの「遊んで」というのは仕事をしないことを表現しているようです)暮した」とあります。同年1月12日には「主人は青木問屋(勤務先)に帳祝いに行った」とあり、そのころの有田の風習がわかります。
 また、石炭1俵代 1円20銭、卵10個36銭、傘1本2円など、事細かに金銭出納帳としても記録を取られているので、そのころの有田の物価がよくわかります。
 同年3月6日に娘の和子さんが「深川六助氏の葬式に行った」ことも書いてあり、このことは大正12年3月15日付けの「松浦時報」にも白川斎場で基督教による六助氏の告別式の様子が報じられ、その様子を撮影した写真も子孫の方から寄贈していただきました(館報No,88に掲載)。この会場に和子さんの姿もあったことでしょう。

 その他にも、戦時中の有田の暮し、あるいは東京の医学校等に進学した息子たちを訪ねた時の有田から東京への往復の旅の様子等、ここまで詳細に書いた日記はあまり例がないのではないかと思われる位です。これから、折を見て有田皿山の戦前史の一端を、トヨさんの日記をもとに紹介していきたいと思います。                (尾)

古賀トヨさん

Share on Facebook
Bookmark this on Yahoo Bookmark

コメントは受け付けていません。