“赤絵”の技術と“柿右衛門様式”

前回、初代酒井田柿右衛門である喜三右衛門の開発した“赤絵”が、後の有田の後継技術となり、本来“色絵”の一種である“赤絵”が、次第に“色絵”の同義語として用いられるようになったのではないかということについて記しました。今回も、この喜三右衛門の“赤絵”について、もう少し触れてみたいと思います。

以前、「初代柿右衛門作と言われて買った物だが、どうだろうか?」ということで、伝世品を持参された方がいらっしゃしました。真贋は別として、バリバリのいわゆる“柿右衛門様式”の作品でした。このように、柿右衛門作のものなら、“柿右衛門様式”のはずと思ってらっしゃる方も案外多いのではないでしょうか。

『酒井田柿右衛門家文書』によれば、喜三右衛門が“赤絵”を完成させ、はじめて長崎で売ったのが正保四年(1647)と云います。色絵の技法は1640年代中頃に成立し、3種類の個別に成立した技術の中で最後に成立したのが喜三右衛門の“赤絵”なので、年代的には1647年ないしは、その直前であったと推定されます。ところが、“柿右衛門様式”の成立は、1670年代のことなのです。喜三右衛門は、それ以前に亡くなったと考えられているので、初代柿右衛門作の“柿右衛門様式”の作品は、存在しようがないわけです。

“柿右衛門様式”の名称の意味については、以前も記したことがあります。もともとは製品のスタイル差は生産場所に起因すると考えられたため、“柿右衛門”の名称が冠されたのです。しかし、“柿右衛門”ではなく“柿右衛門様式”となった今日では、“柿右衛門”という名称自体に何らの意味もありません。仮に“柿右衛門”という名称で括る、“様式”の類する製品群の意味だからです。なので、たとえば“柿右衛門様式”の製品であっても、必ずしも酒井田家の製品であることを示しているわけではありません。

“柿右衛門様式”が生産された時代、酒井田家が使用していた登り窯は、下南川原山の柿右衛門窯跡(下南山)でした。ところが、発掘調査すると、焼成室の場所を問わず、“柿右衛門様式”の製品が出土するのです。当時の登り窯は地区の共同窯であったため、酒井田家だけが使用したわけではありません。もちろん、柿右衛門窯跡という名称も、昭和に入ってから命名されたものです。ということは、南川原山では酒井田家に限らず、“柿右衛門様式”の製品を生産していたことになります。それどころか、同じ頃には内山でも、南川原山の製品を模して生産されていたのです。つまり、南川原山を起源とするという意味では、“南川原山様式”の方が適切だと思われます。

話しを喜三右衛門の“赤絵”に戻します。喜三右衛門が“赤絵”を完成させたのは、おそらく楠木谷窯跡(泉山)です。その1640年代後半頃に生産されていた色絵磁器は、様式分類では、すべて“古九谷様式”に含まれます。つまり、初代柿右衛門が製作していたのは、“柿右衛門様式”ではなく“古九谷様式”だったのです。

その後、1650年代の中頃から後半頃に、酒井田家を含む楠木谷窯跡に関わっていた人達の一部が南川原山へと移住したものと推測されます。その理由については、またいつか触れてみたいと思います。つまり、前回記したように、“赤絵”の技術自体は有田全域に広がりましたが、最も純粋な“赤絵”の技術は、当時は年木山と称された泉山から南川原山へと移植されたのです。この“赤絵”の技術は、南川原山の地で、さらに改良・洗練が進められました。そして、それが結実した形こそが、“柿右衛門様式”だったのです。(村)

楠木谷窯跡発掘調査状況(1号窯跡)

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