“色絵”と“赤絵”

赤や緑をはじめ、さまざまな色調の絵具で彩られたやきものは、一般的に“色絵”と呼ばれます。明治になると器の表面を覆う釉薬の下で発色する釉下彩(下絵)も開発されましたが、江戸時代には釉薬の上に描く釉上彩(上絵)に限られていました。

今からもう20数年も前のことですが、有田郵便局の建て替えの際に、色絵磁器を生産する上絵付業者の工房跡が発見されました。当時は、低温焼成する上絵付は失敗が少ないので、そんなに出土品はないはずというのが、調査前のちまたの予想でした。ところが、発掘調査を進めると、毎日ものすごい数の色絵の破片が出土したのです。有田初、ということは日本初の発見だったので、発掘調査の際には、新聞やテレビなどのマスコミでも度々取り上げられました。

この調査は上絵付工房跡なので、当然話したり書いたりする時には、“色絵”という単語を頻繁に使う必要がありました。ところが、今では信じられないかもしれませんが、当時の有田では“色絵”という言葉は事実上の禁句で、なかなか正々堂々とは使いづらい単語だったのです。実際に、調査中に見学にこられた方から、何度か叱られたこともありました。「有田に“色絵”はない。“赤絵”だ。」というのがその主張です。たしかに、上絵付業者は“赤絵屋”と呼ばれるし、そこで用いる窯も“赤絵窯”です。ついでに、掘ってる場所も“赤絵町”なのです。こうなると、当時はまだ力量不足で、「一般的には“赤絵”じゃなくて、“色絵”なんだけどな?」、「まったく赤絵具を使わない磁器でも“赤絵”なんて変では?」なんて思いながらも、反論することすらできなかったのです。

この“赤絵”という単語が見られる最も古い記述は、『酒井田柿右衛門家文書』の中にある「赤絵初リ」の書き出しではじまる「覚」です。今回は詳しくは記しませんが、初代柿右衛門である喜三右衛門が苦労して“赤絵”を完成し、正保四年(1647)にはじめて長崎で売ったという話しです。何しろ、上絵付け創始の記述に“赤絵”の語が使われているのですから、これはもうどうにもお手上げです。と、当時は思っていました。

しかし、その後登り窯跡を中心に、発掘調査がどんどん進みました。そして、この喜三右衛門が“赤絵”をはじめた窯が楠木谷窯跡(泉山)の可能性が高いことや、上絵付けの技術が1種類ではなく、3カ所の窯場〔岩谷川内山、黒牟田山、年木山(泉山)〕で別々に誕生したことなども分かるようになってきました。しかも、喜三右衛門の“赤絵”以前に、楠木谷窯跡ではすでに別の種類の上絵付け磁器が焼かれていたのです。喜三右衛門の“赤絵”は、乳白色に近い素地に暖色系の絵具を多用し、余白を活かした構図が特徴的です。しかし、その“赤絵”よりも遡る上絵付け磁器は、多くは緑や紫、黄色など寒色系の絵具を多用し、文様がびっしりと描かれます。やはり、“赤絵”というイメージには合わないのです。

ところで、『酒井田柿右衛門家文書』の別の文書には、次のような記述もあります。「赤絵者之儀、釜焼其外之者共、世上くわっと仕候得共、某手前ニ而出来立申色絵ニ無御座、…」。この中には、“赤絵”と同時に“色絵”という単語も使われています。つまり、有田でも、かつては“赤絵”だけでなく、“色絵”の用語も使用されていたのです。しかも、続いて「釜焼其外之者共」は喜三右衛門を手本にしたことを記しています。実際に、同時期のさまざまな窯跡の発掘調査では、楠木谷窯跡で開発された“赤絵”の技術の影響を受けた様子が窺えます。たとえば、染付文様などを伴わない無文の白磁の色絵素地なども、この技術の中で誕生したものです。

つまり、 喜三右衛門の“赤絵”が、当時の複数の上絵付けの技術の中で、後の有田へと伝承される主たる後継技術となったのです。本来“赤絵”は“色絵”と同義語ではなく、“色絵”の中の一つの種類であったと推測されます。しかし、有田の後継技術となったことで、“色絵”と同義語として使われるようになったのではないかと思われます。(村)

1650年代前半頃の“赤絵”(泉山口屋番所遺跡)  右:内面   左:外面

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