有田磁器の“様式”とは…??

先週は、“初期伊万里”と“初期伊万里様式”の違いなどについて記してみました。ついでと言うわけではありませんが、今回も引き続き、“様式”の問題について触れてみたいと思います。

有田の古陶磁を種類別に分けると、“初期伊万里様式”、“古九谷様式”、“柿右衛門様式”、“(金襴手)古伊万里様式”などに分けられます。肥前磁器の様式という意味では、その他に“鍋島様式”などもありますが、これは大川内山(伊万里市)で成立・発展する様式で、有田にはありません。

こうした、“古九谷”や“柿右衛門”、“古伊万里”といった名称は、大正時代から昭和初期頃にかけて徐々に定着してきました。ここで気をつける必要があるのは、たとえば、あくまでも“柿右衛門”であって、“柿右衛門様式”ではないように、すべて当初は“様式”ではなかったことです。石川県の九谷で作られた(と考えられていた)“古九谷”、酒井田柿右衛門家の製品である“柿右衛門”、肥前民窯の製品である“古伊万里”、鍋島(佐賀)藩窯の製品である“鍋島”といった具合です。つまり、当初は、製品のスタイル差が生じる要因は、生産地の違いと捉えられたわけです。ちなみに、“初期伊万里”はそれから少し遅れる昭和30年代頃に、“古伊万里”から分離されたものです。

ところが、日本の経済成長が著しくなった昭和30年代頃になると、欧州などから多くの磁器が買い戻されるようになり、また、流通・消費の情報ももたらされるようになりました。その中には、小規模な産地であるはずの“九谷”や一つの業者の手になるはずの“柿右衛門”なども多く含まれることが分かったのです。しかも、“古伊万里”を生産した有田の民窯の窯跡の出土品には、そうした“古九谷”や“柿右衛門”に区分される製品も含まれていることが判明しました。そのため、さらに研究が進められ、実は、製品のスタイルの違いは、生産場所によるものではなく、生産時期差に起因すると考えられるようになったのです。すなわち、“初期伊万里”、“古九谷”、“柿右衛門”、“(金襴手)古伊万里”の順です。

ここで問題なのは、生産場所差から生産時期差に変わった時点で、従来の名称はまったく意味を失ったことです。有田民窯製の“古九谷”や酒井田家製ではない“柿右衛門”など、その分類に位置付ける明確な定義がなくなったからです。よって、本来ならばスパッと名称を変更できれば良かったのですが、そう簡単にいかないのが、古陶磁に関わる業界です。すでに名称が広く認知されていたため、変更が叶わなかったのです。そこで、考え出されたのが、名称の後ろに“様式”の語を付加し、生産地とは切り離して、単純に製品のスタイル名とする方法でした。よって、現在では“古九谷様式”や“柿右衛門様式”の名称であっても、それ自体、なんら生産場所的な意味は有していなのです。これは、特に生産地別の意味の但し書きでもない限り、“様式”の語が省略されていても同様です。これにより、“初期伊万里様式”、“古九谷様式”、“柿右衛門様式”、“(金襴手)古伊万里様式”の順に推移することが、定説として捉えられるようになりました。

その後、昭和末期から平成初期のバブル期前後には、すさまじい勢いで開発が行われました。そのため、有田でも、従来は学術的に重要な窯跡などが単発的に発掘されていたに過ぎないものが、開発に備えるために次々と発掘調査されるようになりました。これにより、膨大な資料が積み上がった結果、単純な様式変化ではなく、地域差・窯差なども大きく、複数の様式が併存することも分かってきています。また、発掘品の場合は、実際には様式で括ることが可能な製品よりも、様式名の付けられない製品が一般的なのです。これについては、長くなるので、また別の機会に示してみたいと思います。(村)

有田磁器の様式(左から、初期伊万里、古九谷、柿右衛門、古伊万里)

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