有田磁器が伊万里焼と呼ばれたわけ?

有田の磁器は、江戸時代には、一般的に伊万里焼と呼ばれていました。現在では、通常伊万里市で生産されるやきものを伊万里焼と称していますが、当時は、佐賀県や長崎県で生産された磁器は、すべて伊万里焼だったのです。つまり、伊万里焼とは、肥前磁器の総称ということができます。これは陶器も同様です。どこで作られようが、肥前の陶器はすべて唐津焼だったのです。

では、なぜ有田の磁器が伊万里焼になったのでしょうか?これについては、さまざまな書籍などでも触れられているため、ご存じの方も多いかと思います。“伊万里の港から船で全国へと積み出されたから”とする説明がほとんどだと思います。同様に、陶器は“唐津の港から船で積み出されたため”とされています。たしかに、陸路や空路が発達した現代と異なり、江戸時代にはやきものなど重い荷物を大量に運ぶためには、海路が主要な手段でした。そのため、伊万里や唐津の港から積み出されたためと説明されると、何となく納得してしまいます。でも、よくよく考えると、ちょっと変だと思いませんか?

伊万里焼と称された有田磁器が誕生したのは、1610年代中頃です。当然、当初は有田以外に磁器の生産地はほとんどありません。しかし、この有田磁器を全国へと運ぼうにも、有田には海がありません。そこで、陸路で同じ佐賀藩内の近隣の港である伊万里まで運び、そこから全国に向けて船積みしたのです。すると消費地では、伊万里から来た製品という意味で、実際には有田の磁器でありながら、伊万里焼の名称になったのです。と、ここまでは、一般的な書籍の解説でも矛盾はありません。

しかし、磁器がはじまった頃の有田では、同時に陶器も生産されていました。伊万里焼とともに、唐津焼が併焼されていたことになります。磁器は伊万里の港から積み出されました。でも、一般的な説明では、併焼される陶器は、藩も異なる遠方の唐津の港までわざわざ運んだことになります。もちろん、伊万里の港から、磁器といっしょに積み出せない理由があったわけではありません。さらに、伊万里市は大川内山があるため、現在では磁器の産地のイメージもありますが、江戸時代のはじめには磁器はほとんど焼かれておらず、逆に、肥前の陶器生産の中核地でした。つまり、磁器を積み出した港があった場所にも関わらず、地元の製品は唐津まで運んだことになります。やはり、何だか変です。

実は、これは“積み出し港名から”ではなく、“当初の積み出し港名から”と置き換えるとすっきりします。肥前には、佐賀藩や唐津藩の他にも、大村藩(波佐見など)や平戸藩(三川内など)など窯業の発達した藩がいくつかあります。しかし、こうした各窯業地の技術も元を遡れば共通しており、製品自体に大きな違いがあるわけではありません。当初、磁器は有田ではじまり、同一藩内の伊万里の港から積み出されました。同様に、陶器は岸岳(唐津市)の山麓ではじまり、唐津の港から積み出されました。そして、すでにこの時点で名称が固定化されたのです。よって、後にはどこの港から積み出されようが、陶器は唐津焼、磁器は伊万里焼となったのです。もちろん、有田の唐津焼も、伊万里の唐津焼も、伊万里の港から全国へと運ばれたのです。(村)

有田周辺の位置図

Share on Facebook
Bookmark this on Yahoo Bookmark

コメントは受け付けていません。