有田焼の原点・泉山磁石場

今年の秋の陶磁器祭りでは、泉山磁石場(通称:石場)が初めて一般開放され、多くの見学者で賑わいました。今まで、限定で入ることは出来ましたが、自由に(といっても安全のために立ち入ることが出来る範囲は限られていましたが)散策が出来たのは今回が初めてでした。これは石場組合と町商工観光課の尽力によるもので、石場内の紅葉のライトアップも実施され、当館のライトアップと合わせて見学された方も多かったのではないでしょうか。

この石場ですが、もうすぐ400年という有田焼の歴史の原点でもあります。17世紀初頭に朝鮮人陶工李参平(日本名・金ケ江三兵衛)によって発見され、日本で初めての磁器が焼成されたといわれています。それまで日本には国産の磁器は存在しなかったのです。その後、発見者であった三兵衛の分家が石場(当時は土場と称した)の所有権や採掘権を持っていたようですが、時が経過していくとその所有を巡って訴訟があり、その記録が「皿山代官旧記覚書」にも記されています。土場、土穴持ち、土伐りなど、江戸時代を通して原料のことは「土」と表現していますが、明治期に入ると「土場」と「石場」の混用がみられ、次第に「石場」に定着していったようです。

江戸時代、この石場を見た人物がその印象を記録したものがあります。一つは唐津の平松儀右衛門という人で、元治2年(1865)、唐津から伊万里、宮野(現在の武雄市山内町)を経由して有田に入り、石場を通りかかりました。そこで泉山を一目見ようと道を辿って行くと、門構えのある番所があって番人がいたけれど、断りも言わずに入って行くと「何処の者か」と問われ、中に心得た仲間がいて、「伊万里の方から」と答えた所、それ以上の詮索はなく中に入っています。そこに広がる風景は、山を長い年月かけてそこここと掘り崩し、大きな石をくり抜いた所を人々が往来していたと。石を玄能で少しずつ打ち壊す音がこだまとなって「誠に身の毛もよだつ思いがした」と感想を述べています。さらに、掘り出した石を山から荷なっておろす人が絶えまなく続いていることも触れています。

この資料は、当時の石場の様子を記した一次資料として大変貴重なものですが、その10年ほど前の嘉永7年(1854)に中島廣足と言う熊本の歌人が、これまた長崎から波佐見を経由して有田を訪れ、久富家に立寄っています。廣足は訪問地の記録と、そこで詠んだ歌を記した「佐嘉日記」という資料を残していて、廣足も又、石場を見た折の「打見るもおそろしく、ことは(言葉)もおよひかたし(及び難し)」と恐れをなした印象を述べています。この日記の挿絵には泉山の風景が描かれていて、描いた人物の名と思われる「琴岳」の銘があります。これは恐らく、当時活躍していた大樽の江副琴岳ではないかと思われます。この絵は陶磁美術館の「有田皿山職人尽し絵図大皿」の泉山の部分に酷似していますが、大皿の高台内にある銘は「佐嘉日記」のものとは異なるようです。

いずれにせよ、今も昔も、石場は見る人になにがしかの感動を与える原風景ではないでしょうか。

「佐嘉日記」の泉山風景

「染付有田皿山職人尽し絵図大皿」泉山部分(有田陶磁美術館)

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